千早城(河内国)
下赤坂城や上赤坂城のさらに背後にあって、楠木正成がまさに「詰の城」としたのが、千早城です。現在の千早城跡は千早神社の境内となっており、表参道は金剛山への登山道ともなっています。登城口千早神社の参道入口であり、金剛山への登山道入口でもあります。登城道入口の左右には二つの石柱が建っており、右には「審強弱之勢於機先」とあり、左側には「決成敗之機於呼吸」とありました。これは楠木正成の崇拝者である徳川光圀によるもので、湊川神社に建立された徳川光圀の「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑の裏面から引用されたものです。ところで、千早城を訪れるのは10年ぶり2回目のことです。登城道入口の縄張図を見て、すっかり忘れていたことを思い出しました。登城道入口から四の丸の曲輪まで、約600段の急な石段を登ることになります。これはまだ緩やかな方です。急な石段かつ段差がまちまちなので、リズムが全く合いませんでした。10年前に比べて相当きつくなった気がするのですが、石段が増えたわけでもないのでしょう。、そしてようやく見覚えのある削平地にたどり着きました。四の丸の曲輪跡四の丸から先は、三の丸へと続いています。四の丸の先にある鳥居四の丸と三の丸の間にある堀切跡(?)三の丸の曲輪跡には社務所のような建物があって、千早城址の碑が建っていました。三の丸三の丸にある千早城址碑三の丸から石段を登った先にはさらに削平地があって、千早神社の本殿にたどり着きました。千早城の二の丸跡でもあります。千早神社は本丸に八幡大菩薩を祀ったのが始まりで、現在は楠木正成・正行父子と、楠木正成の久子夫人が祀られています。二の丸の拝殿二の丸拝殿の後ろにあるピークが本丸なのですが、千早神社の神域で立ち入り禁止となっています。二の丸から先、金剛山に続く登山道も、千早城本丸のピークをトラバースしていました。本丸南側の斜面には、腰曲輪跡のような削平地が見られました。東屋の建つ登山道休憩所ですが、曲輪の跡だと思われます。これも腰曲輪のように見えますが、後世になって改変されたのかも知れません。金剛山登山道の右に腰曲輪を見ながら、反対の左側に目を向けると、本丸らしきピークが垣間見えました。本丸の土塁だと思われます。本丸の背後には鞍部があり、堀切の跡だと思われます。さらには五輪塔が密かに建っており、楠木正儀(楠木正成の三男)の墓所とありました。1680年に建立されたもので、湊川で敗れた楠木正成の首塚とも言われています。1333年、鎌倉幕府軍に下赤坂城と上赤坂城を落とされた後も、楠木正成は千早城に籠もって鎌倉幕府軍と戦っていました。 鎌倉幕府軍5万の兵力を前に楠木党はたった1,000人で籠城戦を行い、なんと100日以上も戦い抜いています。 上赤坂城は水の手を断たれて落城したため、千早城では城内に大木をくり抜いた水がめを300も置き、食糧も十分に蓄えられておりました。 そして上赤坂城・下赤坂城での籠城戦と同じく、千早城の籠城戦でも楠木正成は得意のゲリラ戦法と奇策で応戦していました。 その1つが「わら人形の奇策」で、甲冑を着せて弓矢や槍を持たせたわら人形を、20~30ほど城外に立たせるという作戦です。 これを目掛けて殺到した鎌倉幕府軍に対して、城内から大量の岩を投げ落とすという奇策でありました。 本格的な籠城戦を初めて行ったのは、この楠木正成だったと思いますが、戦国時代より200年も前に籠城戦の原型がここにあったように思います。この千早城での楠木党の善戦と後醍醐天皇の隠岐脱出が転機となり、足利尊氏の六波羅探題襲撃や新田義貞の鎌倉攻めなど、倒幕の流れが一気に進んで行きました。 太平記には、「誰を憑(たの)み、何を待つともなきに、城中にこらへて防ぎ戦ひける楠木が心の程こそ、不敵なれ」とあり、全く同感の思いです。 善戦の理由は、「鎌倉幕府の悪政を正す」という楠木党の意気込みもあったでしょうが、やはり楠木正成の戦略・戦術と人望、そして金剛山の西麓に築いた巨大な城塞ネットワークと民衆の力だと思います。日本城郭協会「日本100名城」