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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(岐阜・三重編)
大阪から名古屋方面へのルートとしては、京都・滋賀・岐阜を通る東海道の他に、奈良・三重を通る奈良街道・伊賀街道の「伊賀越え」のルートがあります。
(本能寺の変の時、徳川家康が堺から岡崎への脱出ルートに使ったのもこの伊賀越えでした) その伊賀越えの要衝にあるのが伊賀上野城です。 伊賀上野城跡碑 いきなり忍者の格好をした人がいたので驚きでしたが、さらに忍者が2人寄ってきて、何やら話し始めました。 どうやら道を探しているようなので、「忍者でも道に迷うことがあるのか」と不思議に思ったのですが、伊賀市内には観光用に忍者の衣装をレンタルするお店があるようです。 伊賀上野城の本丸には三層の天守があり、その天守から別名「白鳳城」と呼ばれています。 正式な名称は「伊賀文化産業城」、すなわち復興天守(模擬天守)です。 これまで史実に基づかない模擬天守に対しては否定的な立場にありましたが、この伊賀文化産業城は個人の私財を投じて建てられたこともあり、あまり文句も言えません。 この大天守と小天守は、昭和10年に伊賀上野(伊賀市)出身の衆議院議員川崎克氏の私財によって木造で建設され、「攻防策戦の城は滅ぶ時あるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」と、伊賀産業文化城と名付けられました。 伊賀上野城は戦国時代の1585年、大和郡山から伊賀に移封となった筒井定次(筒井順慶の養子)によって築城されました。 本丸の東側、一段と高い場所に筒井氏の時代の城跡が残っています。 筒井氏時代の本丸 上野城の縄張りは判然としないのですが、筒井定次は豊臣秀吉配下にあって、伊賀越えの要衝にある上野城を大坂城の防衛ラインとして縄張りを行ったようです。 筒井定次は関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍で参戦したものの、江戸時代になった1608年に改易となり、筒井家もここで滅亡しています。 筒井氏の後、伊予宇和島から入封して来たのが藤堂高虎です。 築城の名手藤堂高虎は、伊賀上野城の大改修を行い、縄張りも大坂城の防衛から、大坂城攻めを目的としたものに変えました。 伊賀上野城の西側の防御を特に固め、高さ30mもの高石垣を築いています。 本丸から見た内堀と高石垣 ビルの10階屋上から下を見ているような感じです。 直線的に立ち上がる隅石が藤堂流築城術で、日本一の高さとされて来ましたが、大坂城の石垣の方がわずかに高いとのことでした。 (大阪夏の陣の後に天下普請で築かれた大坂城の石垣も、藤堂高虎の普請によるものです) それでも1人の大名によって築かれた石垣としては、伊賀上野城が日本一ではないでしょうか。 伊賀上野城一帯は上野公園として整備されており、「伊賀文化産業城」の他にも、伊賀にゆかりの建物があります。 忍者博物館 伊賀上野城を訪れるのは2回目なのですが、前回は目的地の明かされないミステリー列車での旅行だったので、計らずも伊賀上野を訪れることになりました。 もう30年も前の話なので、城跡については覚えていませんが、忍者屋敷のことは覚えています。 さらに伊賀出身の人と言えば 松尾芭蕉の「俳聖殿」 こちらも伊賀文化産業城と同じく、川崎克氏によって建設されたものです。 (財)日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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