大垣城(美濃国)
「全国水の郷100選」に選ばれ、「水の都」と呼ばれるのが岐阜県大垣市です。かつての大垣城も随所に水路を巡らせ、水城のような様相だったと思います。大垣城縄張図現在も大垣市内にはいくつもの水路が流れており、かつての城下が偲ばれました。大垣城の北側、龍ノ口門付近の水門川この水門川が外堀の役目を果たしていました。現在の大垣城は、二の丸と本丸の跡が大垣公園として整備されています。二の丸跡この日は「十万石まつり」が行われ、大垣駅からの大通りではパレードが行われていました。二の丸跡に建つ常葉神社歴代大垣藩主を祀った神社で、この日は法被姿の人たちが祈願を行っていました。戦前まで大垣城の本丸には天守や櫓が残っていましたが、太平洋戦争の空襲によって消失しています。本丸城郭図丑寅櫓の隅櫓空襲で焼失しましたが、鉄筋コンクリートで再建されました。丑寅櫓に続く東門元々は外堀の柳口にあった門を移築したものです。丑寅(北東)の他に、戌亥(北西)にも隅櫓が建っていました。戌亥櫓戌亥櫓の脇には水の手門の跡が残っていました。水の手門跡戌亥櫓から丑寅櫓に続く本丸北側の土塀土塀の前面道路も、かつての水堀だったと思われます。本丸へは西門を通って入りました。それらしい造りの櫓門ですが、縄張図を見る限りここに門はなかったはずです。本丸に入ると、石垣が残っていました。辰巳櫓の櫓台でしょうか。東埋門跡天守(外観復元)大垣市のすぐ西隣りは関ヶ原町で、伊吹山や鈴鹿山脈のその先は畿内です。京都や奈良に住んでいる時、伊吹山や関ヶ原は一つの心理的な境界で、その先の大垣は遠国のような感じがしていました。今回は東から大垣に来たのですが、なじみの土地に近づきつつも、遠くへ来た感があるのが不思議です。現地の解説板によると、大垣城は竹腰尚綱が1500年(明応9年)に創建したとも、宮川安定が1535年(天文4年)に築城したとも言われています。(いずれにしても、初めて聞く名前です)1583年には池田恒興が豊臣秀吉の命によって15万石で入城し、池田恒興が小牧・長久手の戦いで戦死すると、その子池田輝政が入城しています。(池田恒興・輝政など、ようやく知った名前が出てきました)その後1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍の石田三成が大垣城を本拠地としました。しかしながら西軍は関ヶ原へと撤退したため、大垣城は取り残される格好となり、東軍の前に落城しています。1635年には戸田氏鉄が大垣藩10万石で入城し、以後明治維新まで戸田氏の居城となりました。二の丸にある戸田氏鉄像戸田氏と言えば田原城の戸田康光、今川義元の人質として駿府に送られる竹千代(のちの徳川家康)を、裏切って織田信秀(信長の父)の下へ送った人物です。よく調べると、戸田氏鉄は同じ戸田氏でも嫡流ではなく、支流だそうです。それでも戸田康光の裏切りにより、幼少の徳川家康は兄貴分の織田信長と懇意になりました。今川義元が桶狭間の戦いで討死した後の歴史を振り返った時、徳川家康にしてみれば大手柄だったかも知れません。日本城郭協会「続日本100名城」