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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:旧街道めぐり
東海道桑名の次が日光街道中田宿などと、徳川家康もビックリでしょうか。
東海道の宿場町めぐりが2年ぶりならば、日光街道の方は栗橋宿以来実に3年ぶりです。 (西日本の城跡や旧街道をめぐっているうち、日光街道の方はディーン元気を凌ぐほどの投げやり状態になっていました) 栗橋宿と中田宿の間には利根川が広がっており、埼玉県から茨城県になると共に、旧国名でも武蔵国から下総国に変わります。 国道4号線の利根川橋 江戸幕府は主要街道の河川に橋を架けなかったことで知られていますが、利根川も例外ではなく日光街道唯一の渡し場がありました。 利根川を渡ってみたものの、中田宿の中心部が今ひとつ判然としませんでした。 おそらくこれが旧日光街道だと思います。 この細い道を進んで行くと、街道筋でよく見かける顕彰碑があったので、まず旧街道とみて間違いはなさそうでした。 顕彰碑だと思われますが、風雨に晒されたためか文字が全く判明せず、悲しいことに何を称えているのか、さっぱりわかりませんでした。 中田宿の日光街道は松並木となっており、その美しさは東海道にもなかったと言われています。 中田宿の旧日光街道。。。 国道1号線が旧東海道から外れているように、日光街道も国道4号線からは外れて、県道228号線が旧日光街道を踏襲しているようでした。 真っ直ぐ続く道に旧街道が偲ばれます。 それでも旧街道沿いには由緒ある神社・仏閣が残っていました。 鶴嶺八幡神社 由緒によると、源頼朝は奥州征伐の時に戦勝を祈願したとされ、鎌倉の鶴岡八幡宮を分詞したものだそうです。 由緒を読む限りでは、「歴史の順番が逆なのでは?」と思ったのですが、それも含めて旧街道でしょうか。 その鶴嶺八幡宮からほどなくして、光了寺がありました。 静御前ゆかりの寺であり、静御前が後白河法王から下賜された舞衣が残っているそうです。 源頼朝の次が静御前と、何でもありの中田宿ですが、結局本陣の場所は判然としませんでした。 残念ながら、度重なる河川工事で利根川河川敷に水没したと見るのが妥当かも知れません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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