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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:旧街道めぐり
中田宿・古河宿・野木宿をもって「古河三宿」と呼ばれ、江戸時代は古河藩の管轄下にありました。
日光街道唯一の渡し場である「房川(利根川)の渡し」や中田関所があった中田宿、そして古河公方館や古河城などの政治の中心地であった古河宿に比べると、野木宿は何とも地味な感じの宿場町です。 古河宿の宿場町を過ぎると、程なくして国道4号線から分岐する細い道があり、野木神社へと続いて行きました。 創建は仁徳天皇の時代ですから、今から1600年以上も前の話になります。 平安時代には征夷大将軍坂上田村麻呂が、蝦夷からの帰り道に現在地に社殿を造営したと伝えられています。 その社殿は1803年に火事により焼失しましたが、古河藩主で幕府老中の土井利厚によって現在の社殿が再建されました。 時代は明治になって、野木神社に自身のゆかりの品々を奉納した人がいるのですが、その人こそ陸軍大将乃木希典でした。 乃木と野木とは全く関係がないとは思われますが、乃木希典が「ノギ違い」だと知っていたのか、それとも「わしもノギじゃけど、この神社は字が違っちょる」と長州弁で言ったかどうかはわかりません。 乃木希典は何度か野木神社を参拝して陣羽織などを奉納したそうですが、後世になって建てられた乃木神社(下関)と乃木神社(赤坂)の方が、野木神社よりはるかにゆかりが深くなるとは、皮肉としか言いようがありません。 明治になって野木神社に奉納されたものの中に、和算の問題と解答を奉納した「算額」があります。 少なくとも三平方(ピタゴラス)の定理と二次方程式が必要でしょうか。 野木神社の前を通る細い道を行くと、やがて国道4号線と合流しました。 民家の塀の脇には旧街道を思わせる道標があり、「野木宿木戸口」の看板がありました。 野木神社からさらに日光街道を北上すると、野木神社の別当であった満願寺の境内が左手にありました。 野木宿付近の日光街道は国道4号線が踏襲しており、普通の2車線道路がずっと続いていました。 神社や仏閣だけが旧街道の名残を留めていましたが、それでも旧家の長屋門なども残っていたりして、わずかに往時を知ることができました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/12/08 10:44:35 PM
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