|
テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(栃木編)
天下の趨勢を決めた関ヶ原の戦いの中で、重要なファクターの1つが小山評定でしょうか。
会津の上杉景勝討伐軍を率いて北上していた徳川家康でしたが、近畿での石田三成の挙兵を知ると軍を反転させ、その後の関ヶ原での決戦と続いて行きました。 その徳川家康が軍を反転させた場所が小山でしたが、徳川家康にも容易に軍を反転できない事情があり、この時に開かれた軍議が小山評定です。 元々会津討伐は豊臣秀頼の名代として、豊臣家の名の下に徳川家康が上杉景勝を討伐するものであり、これに従う諸将も豊臣秀頼の家臣としての位置付けでした。 その軍を反転させて石田三成と対決することは、徳川家としての私的な戦いに豊臣家の軍隊や軍資金を使うことにもなりかねません。 さらには従軍する諸将は豊臣秀吉恩顧の大名ばかりであり、その諸将も大坂で石田三成に妻子を人質に取られている事情がありました。 (現に細川忠興のガラシャ夫人は、石田三成方に屋敷を包囲され、屋敷と共に焼死しています) 徳川家康の方針としては、「石田三成を討つ」とした上で、進退については諸将に委ねるものでした。 諸将が「われもわれも」と徳川家康に付くか、それとも「われもわれも」と大坂に帰るか、その重要な軍議が小山評定でした。 小山市役所の敷地内にある小山評定跡の碑 三間四方の仮御殿を急造して軍議が行われたそうです。 本多忠勝・井伊直政・本多正信などの徳川家康直轄に加え、福島正則・山内一豊・黒田長政・細川忠興・加藤芳明・浅野幸長などの豊臣家恩顧の大名が並ぶ中、真っ先に徳川家康への賛同を口にしたのが福島正則でした。 この福島正則の賛同がきっかけとなって、諸将も徳川軍に味方することを誓ったのですが、これがまさに徳川家康のシナリオです。 この粗野な荒くれ武将を懐柔・説得したのが黒田長政で、黒田長政はその後も小早川秀秋や吉川広家の寝返り交渉にも成功し、戦後は一番の功労者として豊前中津12万5,000石から筑前名島52万3,000石へと大幅加増となっています。 ところでこの黒田長政ですが、これだけの知略に富んでいながらも、父の黒田孝高(官兵衛)には及ばなかったと言いますから、黒田官兵衛の知略が窺えるところです。 さらにこの小山評定では、山内一豊が居城である遠州掛川城の明け渡しを表明したため、東海道の各将もそれにならって城を明け渡したと言われています。 豊臣秀吉が1590年に小田原の役で北条氏を滅ぼした後、北条氏の旧領である関東に徳川家康が入り、徳川家康の旧領である駿河・遠江・三河には、その抑えとして豊臣秀吉貴下の有力武将が入っていたので、この山内一豊の申し出により東海道の通行が容易となりました。 ところでこの小山評定では、福島正則や山内一豊に倣って、諸将がこぞって徳川家康に味方した印象がありますが、その中で徳川家康に従わずに帰参した武将がいたことはあまり知られていないかも知れません。 美濃岩村の城主田丸直昌は、豊臣家の恩顧を理由に東軍には加わりませんでしたが、なんとも愚直というか、そうそうたる面々がキラ星の如く居並ぶ空気の中で、よく勇気があったものだと思います。 悲しいことに田丸直昌が寝返ったところで大勢に影響はありませんでしたが、この関ヶ原の戦いの趨勢を揺るがした武将もいました。 会津討伐には従軍しながら、石田三成の挙兵を知って西軍に寝返った真田昌幸です。 真田昌幸の抗戦によって徳川秀忠軍の別働隊が関ヶ原に到着することができず、あわや秀忠が切腹させられそうになったのは、歴史の知るところでしょうか。 関ケ原の戦いが終わって江戸時代に入った1622年、将軍の日光社参の休憩所として、小山には小山御殿が建てられました。 この地に建てられたのは、関ケ原での小山評定を吉例としたことに因んでいます。 小山御殿跡 建物は台風で一部損壊したため、1682年に古河藩によって解体されました。 小山御殿の復元図 小山御殿は土塁と堀に囲まれていたようですが、現在も小山市役所の裏手にその土塁の跡らしきものが残っていました。 小山御殿の堀跡 関ヶ原合戦についてはこちら↓ 【送料無料】関ヶ原(上巻)改版 [ 司馬遼太郎 ] 【送料無料】関ヶ原(中巻)改版 [ 司馬遼太郎 ] 【送料無料】関ヶ原(下巻)改版 [ 司馬遼太郎 ] お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/08/18 02:29:06 PM
コメント(0) | コメントを書く
[城跡と史跡(栃木編)] カテゴリの最新記事
|