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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(神奈川編)
お彼岸を過ぎてすっかり秋めいてはきたものの、まだまだ湘南の海岸には夏が残っていました。
稲村ヶ崎から見た七里ヶ浜と江ノ島 水着姿の人がいたり、ツクツクボウシが鳴いていたり、ここだけは夏に戻ったような感じです。 稲村ヶ崎は由比ヶ浜と七里ヶ浜の海岸線の間にあり、なぜかここだけ断崖となっています。 由比ヶ浜方向から見た稲村ヶ崎 おりしも強大な台風17号が接近中なのに、思ったよりも波は穏やかでした。 (「稲村ジェーン」は伝説なのか・・・) バブル期に学生時代を過ごした人間にとっては、映画「稲村ジェーン」も伝説になりつつありますが、加勢大周を知る人も少なくなり、ましてや「初代の加勢大周」とか言っても意味がわからなくなってきました。 ♪四六時中も好きと言って~、波はどこへ帰るのか~♪ 聞いていた通りに荒波がさらう断崖でしたが、ここをどうしても徒歩で越えなければならない人もいました。 時代はずっと下って「太平記」の頃、本拠地である上野国(群馬県)を発ち、鎌倉幕府倒幕を目指して進軍していたのが新田義貞です。 稲村ヶ崎にある「新田義貞徒渉伝説地」の碑 鎌倉まであと一歩のところで稲村ヶ崎の断崖に阻まれ、新田義貞のとった行動は、潮が引くことを願って金の剣を海に投げ込んだことでした。 すると潮が引いて進軍が可能になったという全くふざけた話で、「笑止千万」とはこのことでしょうか。 こんな伝説もわからないでもなく、何かことを起こすにあたっては、士気を高めるためにも、験を担ぐことも大将の役目だったかも知れません。 織田信長も桶狭間の戦いで今川義元軍と対決するにあたり、織田軍の集結地であった熱田神宮で銭を2枚投げ、「両方とも表がでたら我が軍の勝利」と験を担いだこともありました。 果たして織田信長の投げた2枚の銭は、両方とも表が出たのですが、そもそも両面とも表になるよう細工していたとも言われています。 それにしても「金の剣を投げたら潮が引いた」とか、古事記や日本書紀の記述ならまだしも、千早城・赤坂城の攻防戦や桜井の訣別そして湊川の戦いと同じ「太平記」に書かれているのが衝撃です。 【送料無料】私本太平記(8) [ 吉川英治 ] お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/10/02 12:31:24 AM
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