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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(神奈川編)
「幕末」とか「倒幕」というと、どうしても江戸幕府になってしまいますが、鎌倉幕府にも倒幕の動きがあり、その動きもやはり西国から起こっています。
播磨の赤松則村(円心)などの反鎌倉幕府派が蜂起すると、伯耆の名和長年が後醍醐帝を隠岐島から救出することに成功、護良親王も大和の吉野で檄を飛ばしながら、各地を転戦していました。 その間、河内では楠木正成が再度挙兵、千早城でゲリラ戦法を駆使した壮絶な籠城戦を展開し、続々と押し寄せる幕府の大軍を河内に釘付けにしています。 この動きに呼応するかのように幕府の御家人たちも幕府に反旗を翻し、足利高氏(尊氏)が六波羅探題を襲撃して京都を制圧すると、新田義貞は幕府の本拠地鎌倉を目指して進軍していきました。 新田義貞が本拠地である新田荘(群馬県太田市)で挙兵した時、その数はわずか150騎だったと言われています。 それでも越後や信濃など、関東各地の諸将が新田義貞の下に参陣し、新田軍の数は増え続けていきました。 さらには足利高氏の嫡男である千寿王(後の室町幕府第2代将軍足利義詮)が合流すると、その数はさらに増え続け、最終的には20万の大軍勢になったそうです。 新田軍は小手指原や分倍河原で鎌倉幕府軍を次々と撃破し、いよいよ鎌倉に迫ったのですが、天然の要塞である鎌倉の切通を突破することはできませんでした。 そこで海沿いに稲村ヶ崎を突破して鎌倉に攻め入り、北条高時とその一族が立て籠もる東勝寺がいよいよ決戦の舞台となっています。 分倍河原(東京都府中市)にある新田義貞像(2014年12月) 稲村ヶ崎にある「新田義貞徒渉伝説地」の碑(2012年9月) 鎌倉七口の1つ、化粧坂(2014年10月) 決戦の地である東勝寺は、北条執権邸のあった宝戒寺から東勝寺橋を渡ったところにありました。 東勝寺橋 東勝寺跡 東勝寺のさらに奥、祇園山ハイキングコースの入口には、「腹切やぐら」と呼ばれる場所があります。 北条高時は一族と共に自刃し、その中には内管領長崎高資、前の内管領でその父である長崎円喜、第15代執権の金沢貞顕などがおり、源頼朝以来続いた鎌倉幕府は、ここに滅亡しました。 北条高時の首を守りながらも敗走して幕府軍を助けるため、「貝吹地蔵」が貝を吹き鳴らしたと言われています。 その貝吹地蔵は、鎌倉天園ハイキングコースの瑞泉寺ルートの途中に置かれています。 作者も成立年代も不明の大作「古典太平記」ですが、吉川英治先生がまさに命を削って書き上げた「私本太平記」で甦り、さらに1991年の大河ドラマでは、名作中の名作と言われる「太平記」が放映されています。 大河ドラマ「太平記」より、第22話「鎌倉炎上」 第18話からご覧になると、一連の倒幕の動きがわかるかと思います。 (なぜか繁體中文の字幕が入るので、中国語の勉強にもなります) 北条高時:片岡鶴太郎 長崎円喜:フランキー堺 金澤貞顕:児玉清 赤橋守時:勝野洋 後醍醐天皇:片岡孝夫 足利高氏:真田広之 新田義貞:根津甚八(途中で萩原健一さんが病気のため交代) 楠木正成:武田鉄矢 私本太平記全一冊合本版【電子書籍】[ 吉川英治 ] お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/06/28 10:01:09 PM
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