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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:旧街道めぐり
東海道に比べるとあまり気合が入っていないと言われる日光街道めぐり、野木宿で茨城県と栃木県の県境を越え、いつの間にか下総国から下野国に入っていました。
野木宿の次は間々田宿、日光街道21宿の11番目の宿場町で、日本橋から数えても日光から数えても、ちょうど中間点の宿場町になります。 東海道に比べて宿場間の距離が短いせいか、いつの間にか次の宿場町に入ってきている印象で、間々田宿の場合も国道4号線を北上しているうちに、何となく野木宿から間々田宿に入っていた感じでした。 普通に片側1車線の国道が続いていたのですが、ふと左手に立派な山門の寺院が現れました。 法音寺とのことです 門をくぐって境内に入って見ると、松尾芭蕉も間々田宿で一泊したとのことで、芭蕉の句碑が建っていました。 「道ばたの むくげは馬に 喰れけり」 「おくのほそ道」を読み直してみると、草加の先に間々田の地名の記載はなく、該当の句もありませんでした。 間々田で一泊したかどうかはわかりませんが、「道ばたの」は「道のべの」と紹介されることが多く、しかも東海道の小夜の中山(日坂宿)で詠んだものだそうです。 その法音寺の斜め向かいに八幡神社があり、こちらは日光社参の時の将軍の休憩所とのことでした。 将軍の日光社参は、途中岩槻、古河、宇都宮で宿泊する3泊4日の日程と決まっており、2泊目の古河宿を出発した後、最初の小休止を行ったのがこの八幡神社でした。 法音寺・八幡神社を過ぎた後は、再び普通の国道沿線の風景に変わり、特に何が残っているわけでもありませんでした。 間々田宿には本陣と脇本陣がそれぞれ1軒ずつ置かれ、旅籠屋も50軒ほどあったそうです。 本陣と問屋場の跡には解説板が建つだけで、現在となってはかつての宿場町の面影はありませんでした。 問屋場前の旧街道 本陣前の旧街道 旧街道をそのまま国道が踏襲していることもあるのでしょうが、間々田宿に限らず沿線の光景は大きく変わってしまっています。 それでも旧街道から外れて寄り道をしてみると、随所に史跡も残っていました。 乙女にある不動原瓦窯跡 古瓦が出土する遺跡として知られており、発掘調査をしたところ瓦窯などの設備が出土したそうです。 出土した瓦は下野国分寺の瓦とも一致しており、律令時代からここで瓦が作られていたことになります。 さらには間々田宿の北端付近には、地名の由来ともなった「間々田八幡宮」がありました。 間々田八幡宮 奈良時代の創建と言われ、939年の平将門の乱の時は藤原秀郷(俵藤太)がここで戦勝祈願をしました。 乱を平定した藤原秀郷は、その御礼として神社に神田を奉納したことから、「飯田(まんまだ)」と呼ばれるようになったそうです。 江戸時代になって、日光街道の中間点であることから「間々田(ままだ)」に改名されたとのことでした。 また、源頼朝も奥州藤原氏との戦いにあたって戦勝祈願をし、この時に境内に松を植えました。 この松は明治になって枯れてしまったようで、現在は3代目の松に代替わりしています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/12/09 12:49:28 AM
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