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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:旧街道めぐり
小山市内に近づいて来ると、国道4号線と分かれて県道265号線が旧街道を踏襲するようになりました。
沿線の風景は相変わらずだったものの、所々に旧家などが残っていました。 長屋門 日光街道沿いにはなぜか長屋門だけが数々残っています。 小山市内に入ってくると、市街地の中を通る普通の2車線道路になっていました。 街道脇にある神社が、唯一旧街道の名残を留めていました。 天満宮 天満宮にある解説 ~要約すると以下の通り~ ・天満宮の創建については、古すぎて記録もないためわからない。 ・記録にあるのは1767年にこの天満宮が分祀されて、近くの稲荷神社に祀られた時のこと。 この時稲荷神社の落慶式を取り仕切ったのは、宮司ではなく持法寺の住職であった。 ・坊さんが神社の落慶式を取り仕切った理由として、当時この天満宮の祭主は青蓮寺の住職が務めており、青蓮寺は持法寺の末寺であったから。 ・青蓮寺は現存しないが、幕末に水戸藩主徳川斉昭が大砲鋳造のために鐘の供出を求めた時、青蓮寺の坊さんは「人殺しに仏さまの鐘を使うとは何事か」と激怒した挙句に鐘を隠してしまった。 青蓮寺のお坊さんについてはわかったものの、結局天満宮の由緒についてはわかりませんでした。 (祭神は菅原道真なので、少なくとも10世紀以降の創建であることは間違いなさそうです) ちなみに解説にある徳川斉昭の大砲鋳造については、3週間前に水戸の街歩きをしている時、水戸の常盤神社でその窯を見たところです。 その天満宮の先には須賀神社の入り口があり、旧日光街道から長い参道が続いていました。 須賀神社の創建は940年のことで、藤原秀郷が八坂神社から分霊したことに始まります。 なお、須賀神社の解説には境内で小山評定が行われたとありましたが、小山評定の碑は市役所の敷地内にもあるため、真偽のほどはわかりません。 それにしても下野国(栃木県)に入ってからは、平将門ではなく藤原秀郷の名前を目にするようになりました。 小山を本拠地とした小山氏は藤原秀郷の末裔とされており、所変われば英雄も変わるものだと思います。 (下総岩井(茨城県)を本拠地としていた平将門を鎮圧したのが、下野(栃木県)の藤原秀郷でした) 小山宿には本陣1軒と脇本陣が2軒あったようで、脇本陣の1軒の場所が残っていました。 建物は残っておらず、明治天皇御在所の碑が建っています。 観光案内所で本陣の場所を尋ねてみると、わからないとのことでした。 やはり小山駅前から祗園城に続く「祗園城通り」との交差点あたり、現在の中央町に宿場町の中心があったのではないかと思われます。 日光街道から見た祗園城通り 日光街道からは少し離れた小山駅西口の南側には、常光寺というお寺があります。 常光寺山門 1868年の戊辰戦争時の戦いの舞台でもあり、大鳥圭介・土方歳三率いる旧幕府軍と、香川敬三率いる新政府軍が小山で激突しました。 この時の流れ弾が本尊である阿弥陀如来を直撃し、今も銃痕が残っているそうです。 日光街道を宇都宮方面に向かった先には興法寺があり、こちらも戊辰戦争の舞台となったようです。 興法寺山門 戊辰戦争の舞台も日光街道・奥州街道を北上し、小山での局地戦から東北各所での戦いへと発展していきました。 関連の記事 祗園城→こちら 小山評定と小山御殿跡→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/12/10 10:38:04 PM
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