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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(神奈川編)
昔の先人達は「辞世の句」を残しており、いずれもその人の生き様や信念、さらには後世に残す思いや現世に対する無念さなどが凝縮されているように思います。
いずれの時代も感じ入るものがありますが、とりわけ戦国時代を生きた武将に限ると、心に残る辞世の句が3句あります。 (同じ戦国の人でも、武将以外の人を含めると4句あって、この4番目の句が最も心に残っています) 当時では戦国武将といえども自分の名前が書けるかどうかという人ばかりで、ましてや辞世の句を残すとなると、武将でありながら教養人でもあったことでしょう。 そしてその3句とは 「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」 「露と落ち 露と消えぬる 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」 「討つものも 討たるゝものも 土器(かわらけ)よ 砕けて後は もとの土くれ」 1つ目は備中高松城主清水宗治。 城主を慕って籠城する城兵や領民の助命と引き換えに、自らの命を差し出した武将です。 その潔くも気高いスピリットが、この一句からも感じられます。 2つ目はその備中高松城を水攻めと兵糧攻めにし、後に関白・太閤まで登りつめた豊臣秀吉。 全てを手中に収めた天下人も、豊臣家の存続と秀頼の行く末だけは未練があったようで、「浪花のこと」がそれを物語っているように思います。 そして3つ目が三浦氏最後の当主で、新井城の城主であった三浦義同(道寸)です。 清水宗治や豊臣秀吉とも違って、来世も現世もない無常観にあふれており、最期に到ってもなお達観していたような感じがあります。 その三浦道寸の新井城は、三浦半島南部の西側、油壺湾に突き出た岬の先端部にありました。 現在は某電鉄会社の水族館がある一帯です。 そのK急マリンパークの駐車場脇には新井城の城跡碑がひっそりと建っていました。 その隣には三浦道寸の墓所があり、家紋である三つ引き紋が刻まれた墓前には、今も供え物が並んでいました。 (撮影はしていません) 新井城跡のある一帯は、関東大震災による隆起で地形が変動しており、必ずしも当時の姿を留めてはいないようです。 それでも東大臨海実験所のある場所に新井城の中心部があったと思われます。 明らかに土塁の跡が残っていました。 空堀跡もはっきりと残ってしましたが、悲しいことに立ち入り禁止です。 さらに悲しいことに、柵の外から観察してみると、明らかに曲輪跡と思われる削平地が見えています。 新井城の築城時期は明らかではありませんが、三浦半島を支配する三浦氏の最後の拠点であったことは間違いありません。 1516年に、相模へ進出してきた伊豆韮山城の伊勢新九郎長氏(のちの北条早雲)が新井城に攻め込み、新井城主三浦道寸義同(どうすんよしあつ)は、新井城での籠城戦を展開しました。 北条早雲を相手に壮絶な攻防戦でしたが、ついに力尽きて新井城は落城し、ここに名門三浦一族も滅亡しています、 その戦いで自刃・討死した将兵もあれば、油壺湾に身を投じた将兵も大勢いました。 血で染まった海面が、まるで油を流したようだったので、「油壺」と呼ばれるようになったそうです。 ヨットハーバーもあって、穏やかな海面の油壺湾も、今は昔でしょうか。 そして和歌にも精通していた新井城主、三浦道寸が残した辞世の句 討つものも 討たるゝものも 土器(かわらけ)よ 砕けて後は もとの土くれ その三浦道寸を討ったのが、北条氏初代の北条早雲です。 「箱根の坂」を越えて相模を手中に入れ、さらには5代で関東全域を制覇したのも北条氏でした。 その後の新井城は北条氏の支配下となり、今度は東の里見水軍に備える前線基地となっています。 船着場跡のようなものがあるのですが、北条氏時代のものでしょうか。 武田信玄や上杉謙信の攻撃も寄せ付けなかった北条氏と小田原城も、1590年の豊臣秀吉の前に降伏・開城したことを思えば、まさに「討つものも 討たるるものも かわらけ」だったのかも知れません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/02 05:19:19 AM
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