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パクス・ジャポニカ Vol.2

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2012/12/20
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テーマ:城跡めぐり(1258)
江戸時代に入って、柴田勝家の北ノ庄城の跡に築城されたのが現在の福井城です。

福井城は総石垣造りの近世現在で、現在は本丸部分の石垣と水堀が残り、福井県庁の敷地となっています。
福井城本丸内堀 (500x374).jpg
本丸南側の福井県庁入口

当時の城郭絵図ではこんな感じです。
福井城本丸内堀南西 (500x375).jpg
何だかコミカルな絵図ですが、隅櫓や枡形門などが建っていたようです。


本丸を一周したところ、とある城跡にそっくりで、パクりかと思ったほどでした。
福井城本丸内堀南 (500x375).jpg
本丸南側

福井城城郭図 (500x375).jpg
福井城の城跡図
本丸は方形をしており、輪郭式の縄張りだったようです。


築城主は初代福井藩主の結城秀康で、親父さんである徳川家康が自ら縄張りを行ったとされています。

どうも駿府城に似ていると思っていたのですが、徳川家康の縄張りと聞いて、それも納得でした。
福井城本丸内堀巽櫓 (2) (500x376).jpg
本丸南東の巽櫓跡
石垣の積み方といい、駿府城によく似ています。
実は福井の後、静岡にも予定があって帰りに立ち寄ったのですが、南側はやはり駿府城によく似ていました。

福井城本丸内堀巽櫓 (1) (500x375).jpg
巽櫓の古写真


本丸東側に差し掛かると、堀端には幕末の立役者の像がありました。
福井城横井小楠由利公正 (1) (500x375).jpg
右の横井小楠は元熊本藩士で、松平春嶽の招きで福井藩の政治顧問となり、勝海舟や坂本龍馬も一目置く存在でした。
熊本城でも、谷干城などと並んで像が建っていたように思います。

左は三岡八郎とあり、「三岡八郎って誰?」と思っていたら、由利公正でした。
横井小楠の教えを受け、坂本龍馬からも新政府への参画を打診された人でした。
五箇条の御誓文を起案したのが由利公正で、明治になってからは初代東京府知事を務めています。

横井小楠も由利公正も、日本史の教科書ではその名前がほんの一行ほど出てくるだけですが、越前福井を訪れてみて、激動の幕末を動かした場所だったと改めて感じ入りました

幕末の越前福井と言えば橋本左内がさらに有名ですが、時間がなくてその生家や墓所を訪れることはできませんでした。


本丸東側に回って来ると、今度は江戸城に雰囲気がよく似ていました。
福井城本丸内堀東 (500x375).jpg
どこがどうということもないのですが、平川門や清水門あたりがこんな感じだと思います。

北東の隅には鬼門欠けが見られ、こちらも何となく竹橋あたりの江戸城に似ている気がします。
福井城本丸内堀北東 (500x374).jpg

搦め手である本丸北側にも虎口があり、廊下橋が復元されていました。
福井城本丸内堀廊下橋 (1) (500x375).jpg

福井城本丸内堀廊下橋 (3) (500x375).jpg
廊下橋
市民の寄付により、史実に基づいて復元されたもので、その先には枡形虎口が見られます。


福井城の北西には天守が建っていたようで、現在も天守台が残っていました。
福井城本丸内堀天守台 (3) (500x375).jpg

福井城復元図 (500x290).jpg
福井城の復元図


本丸周辺は当時の福井城の面影を留めていましたが、二ノ丸・三ノ丸は完全に市街地化されて、見るも無残な状態でした。
福井城三の丸石垣 (1) (500x376).jpg
北陸銀行前に残る三ノ丸の石垣


福井城は「百間堀」と呼ばれる堀で囲まれていましたが、現在となっては市街地の歩道地下、ガラス越しにしか見ることが出来ませんでした。
福井城三の丸百間堀 (2) (500x367).jpg

福井城三の丸百間堀 (1) (500x375).jpg
百間堀のあった方向

かつての堀跡とは無関係に道路が造られていますが、ある意味ではそれも正解かも知れません。
昔の城郭を踏襲して道路を造ると、交通渋滞などで利便性が損なわれるのも事実です。



福井城は1600年に越前に移封となった結城秀康によって築城が開始され、1606年に完成しています。

結城秀康は徳川家康の次男であり、長幼の序列から言うと、初代将軍になるべき立場にありました。
(長男であり正室との間に生まれた松平信康は、まだ織田信長が存命している時代に、信長の意向により自刃しています)

結城秀康が2代将軍としての器量や人望に劣っていたかと言えばそうではなく、個人的には器量も人望も他の兄弟より遥かに上回っていたと思います。
(出生の経緯については、山岡荘八の「徳川家康」に詳しいので、興味があれば読んでみてはいかがでしょうか)


出生のこともあるのでしょうが、徳川家康からは疎まれており、豊臣秀吉との同盟にあたっては養子(人質)として豊臣家に入ったのが結城秀康でした。
(秀吉の「秀」と家康の「康」をとって、「秀康」を名乗っています)

徳川家康の関東入封にあたって、今度は結城氏の養子となり、関ヶ原の戦いでは父の家康や弟秀忠が西へと進軍する中、北関東に留まって上杉氏への抑えとなっていました。


結城秀康について、こんなエピソードがあります。
弟である秀忠が将軍に就任するにあたり、その席でかつての敵であった上杉景勝が上座を譲ろうとすると、秀康は同じ中納言ながら叙任は上杉景勝の方が先であると、上杉景勝に譲ろうとしたことがありました。
結城秀康と上杉景勝で上座の譲り合いとなり、結局は徳川秀忠の裁決で結城秀康が上座になっています。

福井城結城秀康 (333x500).jpg
結城秀康像
どことなく榊原康政にも似ている雰囲気があります。

謙虚で誠実な人柄でありながら、武将としての勇猛さも兼ね備えており、まさに武士の頂点である将軍に相応しいと思うのですが、それが返って家康の反感を買ってしまったのでしょうか。





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最終更新日  2022/02/02 05:16:35 AM
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