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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(新潟・富山・石川・福井編)
朝早く起きて何とか滞在時間を作ったものの、あれもこれも見て回るのは厳しそうでした。
優先順位を 1.丸岡城 2.一乗谷城(朝倉氏居館) 3.永平寺 としたものの、かなりタイトなスケジュールで、3つは難しい状況です。 しかも降雪確率70%と、天候によっては全てを諦める可能性もありました。 これまで数々の城跡を訪れてきましたが、天候不良による撤退は鬼ノ城(第1回目、濃霧による撤退)の1回しか記憶になく、天気にだけは恵まれてきました。 (天候以外の要因、城跡を見失ったとか、ヘビがいたとかによる撤退は何度かあります) 丸岡城に着くまでの間、時折雲の合間から陽が差し込んで、さらに青空も見えるほどだったので、何とか丸岡城には着くことができました。 丸岡城遠景 天守が見えた時はホッとしたほどです。 天守 現存する12天守のうちの1つで、その中でも最古の天守とされています。 (犬山城とする説もあります) 望楼型の2層3階建てで、古めかしい入母屋破風を備えた、いかにも初期の天守といった感じでした。 天守の入口脇には、石製の鯱が置いてありました。 元々の天守屋根には木彫り銅板張りの鯱が載っていたようですが、昭和15年~17年の修復の時、屋根瓦と同じ石製のものに代えられました。 戦時中で銅の入手が困難だった事情によるものですが、昭和23年の福井大地震の時に屋根から落下し、ここに置いてあります。 振り返って数えてみると、これまで訪れた現存天守は、西から宇和島城・高知城・伊予松山城・丸亀城・松江城・備中松山城・姫路城・彦根城・犬山城・松本城、そしてこの丸岡城で11城となりました。 残すは弘前城となりましたが、47都道府県の中で唯一訪れたことがないのも青森県です。 そんな丸岡城ですが、天守以外にはこれと言った遺構がありませんでした。 当時の縄張 三の丸まである連郭式の縄張りだったようですが、現在は本丸部分のみが残っており、石垣や堀などは残っていませんでした。 丸岡城を築いたのは柴田勝家の養子である柴田勝豊で、1575年にそれまでの豊原城から丸岡に拠点を移したのが始まりでした。 丸岡城天守はこの時に建てられたと言われていますが、天守の建造にあたっては悲しい伝説があるようです。 築城にあたり、天守台の石垣が何度積んでも崩れるので、人柱を入れるように進言した者もいました。 そこで人柱に選ばれたのが、二人の子を抱えて苦しい生活を余儀なくされていた「お静」でした。 お静は一人の子を侍に取り立ててもらうことを約束にして、人柱となることを決意、その後天守は無事に完成したとのことです。 後に柴田勝豊が長浜へ移封となったため、結局侍に取り立てる約束は果たされることなく、毎年藻を刈る季節になって降る春雨は「お静の涙雨」と呼ばれているそうです。 お静の慰霊碑 天守は21世紀の現在に至っても、立派に残っています。 江戸時代に入った1613年には本多成重が入封し、上の縄張り図にある城郭を完成させています。 ところで本多成重の父親は、「鬼作左」でも知られる本多作左衛門重次です。 三河武士らしい数々の武勇伝を残す本多作左衛門ですが、「日本一短い手紙」の主でも知られています。 長篠の戦いから妻に宛てた手紙、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」が日本一短い手紙とされています。 その手紙にある「お仙」が、後の丸岡城主本多成重です。 丸岡城横にある「一筆啓上茶屋」 岡崎城代などを務め、浜松城にも「作左曲輪」の名を残す本多作左衛門ですが、晩年は豊臣秀吉の逆鱗に触れたため、上総(千葉県)へ蟄居となり、現在の茨城県取手市で生涯を閉じています。 菩提寺である取手市の本願寺にも「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の碑があり、また長篠城(愛知)付近の鳶ヶ巣山には、消防団による「一筆啓上 火の用心」の幟が並んでいたのを覚えています。 丸岡城の城下町にも当時の面影はありませんでしたが、丸岡藩家老であった有馬天然の屋敷跡は、浄学寺の境内として残っていました。 現在も残る屋敷の庭園 (財)日本城郭協会「日本100名城」(73/100) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/02 05:16:03 AM
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