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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(新潟・富山・石川・福井編)
丸岡城からはバスの便も極端に少ないこともあり、丸岡駅までタクシーを利用することにしました。
途中で新田義貞墓所の案内看板を発見したので、運転手さんに頼んで寄ってもらうことにしました。 新田義貞の最期は北陸だったとは覚えていたのですが、丸岡(坂井市)にあるとは思っていませんでした。 運転手さんも、丸岡城の途中で新田義貞の墓所に寄る人が多いとのことで、「新田義貞はそんなに立派な人だったのでしょうか」と。 私も答えに窮して、「ええ、まあ、そうなのかも知れませんね」と、何とも歯切れの悪い答えになってしまいました。 新田義貞の墓所は称念寺というお寺の境内にあり、田園地帯の中にある普通のお寺といった風情です。 称念寺境内 新田義貞の顕彰碑が建っています。 新田義貞墓所 これまで当ブログ内で新田義貞を愚将だと酷評してきたこともあり、墓前では静かに謝罪しておりました。 足利尊氏や楠木正成と同時代を生き、しかも急に歴史の表舞台に出ざるをえなかったのが新田義貞でした。 建武の新政権下では、楠木正成と共に後醍醐天皇の南朝方についたものの、湊川の戦いでは足利尊氏軍の前に敗走し、越前へと逃れてきました。 称念寺の解説板によると、1338年に灯明寺畷の戦いで討死し、時宗の僧8名によって称念寺に葬られたことが、太平記に書かれているそうです。 ところでこの称念寺はなかなかの名刹で、1562年には明智光秀が称念寺を訪問し、門前で寺子屋を開いていたとのことです。 また松尾芭蕉も称念寺を訪れた際、その明智光秀について「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せむ」との句を残しています。 (「おくのほそ道」では東北の後に北陸も訪れていますが、越前のくだりでは称念寺についての記述はありませんでした) 新田義貞は徳川将軍家の祖先ということで、江戸時代には寺領を安堵されていましたが、明治になると寺領は没収され、無檀家・無住の廃寺寸前だったようです。 大正時代になって地元の人たちによって再興され、現在に至っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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