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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(静岡編)
丸岡で思った以上に時間を使ってしまい、福井の後は静岡での予定があるため、一乗谷城や永平寺は断念することにしました。
静岡では葵区に用事があったのですが、こちらは時間に余裕ができたので、歩いて行く事にしました。 駿府城を通ってさらに歩いていると、やがて浅間神社の長い参道と門前町の前にやって来ました。 用事が済んだ後で、浅間神社に参拝することにしました。 鳥居の下を通って中に入り、境内の案内図を見てみると、「重文」の文字がずらりと並んでおり、相当な由緒のある神社だとわかります。 境内図を眺めていると、1人の女性から声を掛けられました。 「神社はよく見て回られるのですか? 私も神社が好きで、浅間神社には子供の頃からずっとお参りしているんです」と、とても感じのいい人でした。 女性から声を掛けられるなんてまんざらでもないとは思いつつ、「ええ、時間があれば立ち寄ったりしています」と、答えてしまっていました。 (さらに正直に「本当は城がメインでして、戦国山城が得意分野です」などと答えたところで、ドン引きされるのがオチだったと思います) 聞けば浅間神社には3つの神社があって、参道のある赤鳥居は大歳御祖神社、浅間神社の本殿は右手奥にあるとのことでした。 大歳御祖神社山門 ここで調子に乗るのが悪いところで、「確か、浅間神社はサクヤコノハナヒメでしたか?」 となって、「あら、よくご存知で」とのことでした。 日光街道めぐりの前に「おくのほそ道」を読んでいたこともあり、「室の八嶋」のくだりをたまたま覚えていました。 同行の河合曾良が松尾芭蕉に浅間神社の御祭神であるサクヤコノハナヒメについて説明している場面です。 ところで古代日本神話の古事記や日本書紀に登場する神様は非常に難読かつ難解で、「ナントカのナントカのミコト」とか「ナントカのナントカヒメ」ばかりで、さらにその子供も似たような名前とあっては、さっぱりわかりません。 (本居宣長が古事記の研究をするのに、20年かかったくらいです) そんな古代の神々にあって、コノハナサクヤヒメだけは当時にしては現代風というか、ロマンチックな名前で、一番覚えやすい名前です。 (そう言えば大阪花博でも、「咲くやこの花館」というパビリオンがありました) その浅間神社は東側に入口があるようで、一度境内を出てぐるりと回ってみました 浅間神社総門 こういった古くからある神社は「気」が強いので、やはり正面から入るのがいいのでしょうか。 楼門(国指定重要文化財) 浅間神社のある賤機(しずはた)山は、静岡の地名の由来ともなったそうで、徳川家康も浅間神社で元服式を行ったそうです。 徳川家康も使ったとされる御神水井戸 また観阿弥が能を奉納し、その最期の場所がここだとされています。 現在の舞楽堂は江戸時代に建てられたものです。 その背後にある大拝殿は、城郭の御三階櫓を彷彿とさせる造りとなっていました。 大拝殿(重文) お賽銭箱の上には祭神の名前があり、「木乃花咲耶姫」の名前があります。 個人的に気になったのは、お賽銭箱に描かれた2つの紋章です。 左はアザミだとして、右は操舵輪とすれば、漂着したイギリス人船員と結びつけるのは考えすぎでしょうか。 鼻の高い赤ら顔、すなわち天狗=西洋人だと考えれば、これまた飛躍するのかも知れません。 一通り浅間神社を参拝した後、境内を回って戻る途中で、最初にお会いした女性と再び会うことが出来ました。 住まいはここだと教えてくれ、「娘も孫もいないので、今度よかったら寄ってみて下さい」と。 (一世代上の人とは思いながら、お孫さんですか。。。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016/05/23 09:24:39 PM
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