三方原古戦場~祝田坂(静岡・浜松市)
三方原の戦いの前哨戦である「一言坂の戦い」の後、武田信玄軍は一言坂から反転北上し、今度は天竜川上流にある二俣城の攻略にかかりました。二俣城を落とした武田信玄は、今度は西へ向かって進軍し、浜松城の北側を迂回し、まるで徳川家康を無視するような進路です。これを見た徳川家康の浜松城では、城を出て武田信玄と戦うかどうか、家臣を集めて戦評定が開かれていました。当時最強の武田軍を目の当たりにして、武田信玄が通り過ぎるのを静観しようとする意見が大勢だったようです。その武田信玄の主力部隊の人数は25,000、徳川軍は織田信長からの援軍3,000を加えても、11,000ほどの人数でした。しかも織田信長の援軍は戦意に乏しいため、実質徳川軍8,000で3倍の武田軍を相手にしなければならず、到底勝ち目のない戦いです。それでも徳川家康は浜松城を出て、武田信玄と一戦交えることにこだわりました。そしてついに徳川軍は浜松城を出て、浜松城の北側約10kmの位置にある祝田坂の街道で、武田信玄の主力と激突しました。祝田坂の旧街道碑両軍の戦いの場となった三方原の地名は、この辺り一帯の総称ですその戦いが開始された場所とされる根洗松は、代替わりして現在も残っています。三方原墓苑にある布陣図徳川家康は鶴が翼を広げたような「鶴翼の陣備え」で、一方の武田軍は鶴翼の陣に有効な「魚鱗の陣備え」です。徳川家康のとった「鶴翼の陣」は、敵を包囲できるメリットがあるものの、数で劣るためにそれを活かすことができません。むしろ防御が薄くなり、少しでも突破されると一気に浜松城まで攻め込まれてしまいます。それでは何故徳川家康は不利な陣形をとったのでしょうか。実は鶴翼の陣は防御が手薄なものの、敗戦した場合の退却には有利です。戦闘が開始されたのはすでに夕刻でしたが、これも敗戦した場合は夜陰に紛れて容易に退却できるため、徳川家康が敢えて夕刻に開始したと言われています。それでも何故徳川家康は、敗戦が予想される戦いに敢えて挑んだのか、大いに謎が残るところで、これには諸説あります。いずれにせよ徳川軍が圧倒的に不利な状況の下、最強の武田軍との間で戦いの火蓋は切られ、戦いが始まると徳川軍は武田軍の猛攻により、しだいに劣勢に立たされて後退していきました。三方原の戦場から浜松城までは10kmの距離もなく、ましてや迫りくるのは最強の武田信玄軍です。徳川家康はこの危機をどのように切り抜けたのでしょうか。