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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(栃木編)
500年以上もの間、下野の雄者として君臨した宇都宮氏、その本拠地であった宇都宮城は、江戸時代に入ってからの近世宇都宮城として復活しています。
富士見櫓(復元) 本丸土塁と土塀 清明台櫓(復元) 水堀も復元されていますが、当時とは若干違うようで、当時の堀割が青線で引かれていました。 外観復元されている現在の城郭は、宇都宮氏時代のものではなく、本多正純時代のものだと思われます。 富士見櫓や清明台など、本丸西側部分が復元されているようです。 本丸土塁内部には資料館もあるのですが、年末とあって休館していました。 本丸の復元模型(2007年10月訪問時) 南側の大手口から見たところで、左側(西側)に復元された富士見櫓と清明台があります。 本丸虎口にある清水門は、枡形の跡に線が引かれ、土塁を残すのみとなっていました。 清水門跡 御殿のあった本丸跡 本多正純と言えば、あの釣り天井事件の舞台がまさにこの本丸だったことになります。 釣り天井事件の真偽のほどは定かではありませんが、本多正純の改易にあたっては、11ヶ条(後に追加で3ヶ条)の罪状が挙げられたそうです。 まさに因果応報とはこのことでしょうか。 釣り天井事件のみならず、平安・鎌倉・南北朝・室町、そして幕末に到るまで、それぞれの時代で歴史の渦中にあった宇都宮城です。 その歴史を考えると、現在の城郭は寂しい気すらします。 宇都宮城の築城は藤原秀郷とも藤原宗円(宇都宮氏の祖)とも言われています。 以後は宇都宮氏の本拠地となり、関東八屋形の1つとして、500年もの間宇都宮を拠点に北関東に勢力を持っていました。 しかしながら1590年に豊臣秀吉の「宇都宮仕置」によりその名門も滅亡、江戸時代になると本多正純が入城して、城下町の拡大と改修を行いました。 その本多正純も釣り天井事件で改易となり、以後は奥平氏が城主に返り咲くなど、日光街道の要所として徳川譜代の大名が城主となっています。 幕末の戊辰戦争では、土方歳三・大鳥圭介などの旧幕府軍と、伊地知正治・大山巌などの新政府軍との間で宇都宮城をめぐる攻防戦が繰り広げられ、その戦火で宇都宮城の建造物は焼失してしまいました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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