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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(栃木編)
神橋を渡り、目の前の斜面を登っていくと東照宮があるはずなのですが、実は東照宮の場所がよくわかっていませんでした。
輪王寺の前で悩んでいると、同じように悩んでいる人がおり、どちらからともなく声を掛けて、「旅は道連れ」と行動を共にすることにしました。 聞けば函館から福岡に向かうところで、途中で日光に立ち寄ったとのことです。 お互いに身の上話をしながらも、私が雪国に住んだ経験がないことは見抜いていたらしく、「歩き方が見ていて危なっかしいです(笑)」と。 (思えばこれまで住んだ場所と言えば、広島・山口・奈良・京都・千葉・東京そして台湾と、積雪とは縁のないところばかりでした) それでもいざ東照宮に入ってくるとお互いに口数が少なくなったは言うまでもなく、この意匠には圧倒されっぱなしでした。 五重塔 神庫 ここでは重文クラスが当たり前です。 神庫 「見ざる 言わざる 聞かざる」の三猿 輪蔵 そして陽明門 隅々に到るまで意匠を感じることができ、中世日本の建築技術の集大成でしょうか。 拝殿 作事奉行は藤堂高虎で、加藤清正と並ぶ築城の名手でもありますが、建築普請で小堀遠州の名前が出てこないのは不思議なところです。 伝説の彫刻師、左甚五郎作と言われる眠り猫 上野の東照宮にある「昇り竜 降り龍」も左甚五郎作と言われています。 「鳴き竜」の本地蔵 内部は撮影も録音も禁止でしたが、確かに龍のところでは鳴いていました。 「こんなところまで・・・」と、パラノイアとも思われるほどの凝りようには感心するばかりでした。 そしてかつての徳川将軍も参拝した奥宮へと入って行きました。 奥宮拝殿 将軍以外の昇殿は許されなかったそうで、現在も入ることができません。 その拝殿の奥にあるのが、徳川家康の墓所である宝塔です。 徳川家康の死後、静岡にある久能山東照宮に埋葬された後、遺言により江戸の鎮守として日光に埋葬されたと聞きます。 1つ疑問に思うのは、あの希代の吝嗇家(すなわち希代のドケチ)が、これほどのものを望んでいたかどうか。 (豊臣秀吉亡き後の天下が議論になった時、徳川家康に否定的な意見の持ち主は、唯一「ケチでなこと」を理由にしたくらいです) いずれにしても豪華絢爛な社殿から、天下統一後の徳川幕府の権威をまざまざと見せつけられたのが東照宮でした。 思えば戦国時代の関東の覇者北条氏が滅亡した後、関東に入封してきた徳川家康が本拠地にしたのは小田原でも鎌倉でもなく、さらには川越でも岩槻でもなく、一漁村に過ぎなかった江戸でした。 その江戸に幕府が開かれ、明治に入って東京となり、さらには平成のトウキョウを迎えた現在、その遺言どおりになっているのかも知れません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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