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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(神奈川編)
矢倉岳の山頂を後にする時、「はて、どこに降りようか」と考えていました。
矢倉沢まで来た道を戻るのがわかりやすいのですが、予想外に面白くない道だったことと、スズメバチの巣もあるので、真っ先に却下となりました。 そこで次に思いついたオプションは、足柄峠から金時山を経由して箱根外輪山の内側に降りるルートでした。 体力的な心配はあるものの、まだ正午前とあって時間的には十分余裕があり、さらに足柄峠から先はよく知っている道でもあります。 お気に入りの箱根をブラブラしながら帰るのは魅力的なルートですが、この天候では金時山で相当な混雑が予想され、金時山の登りと下りにかなりの時間がかかるため、ちょっと二の足を踏むところでした。 いずれにしても足柄峠に降り、足柄城で富士山頂付近の雲が晴れるのを待って、だめならば足柄古道(矢倉沢往還)を通って地蔵堂に降り、夕日の滝でも見ながら帰るのが現実的な選択でした。 富士見スポットとしては足柄城がお気に入りで、約20km先にある富士山頂から裾野までの全容を望むことができます。(芝生に寝転がって富士見ができるのがよろしいかと) 矢倉岳から足柄峠付近まで降りて来たところには、足柄万葉公園があります。 足柄万葉公園の入口からは新松田までのバス便があるので、何度か利用したことはありますが、万葉公園をじっくり見て歩いたことはありませんでした。 足柄万葉公園から見た矢倉岳 すでに律令時代に開通されていた東海道ですが、江戸時代に箱根ルートが整備されるまで、足柄峠を越えるルートが東海道となっていました。 (「坂東」と言えば箱根の坂のことかと思いますが、実は足柄坂のことで、足柄関から東が「坂東」です) 西国から東国に赴任する役人や、さらには東国から九州に赴く防人など、万葉集には足柄峠を越える悲哀が詠まれており、足柄万葉公園にはその歌碑が並んでいました。 「足柄の 御坂に立して 袖ふらば 家なる妹は 清に見るかも」、東国から九州に赴く防人の歌です。 解説板によると「足柄の神の御坂に立って、ふるさとに向かって別れを告げるとき、家に残してきた妻は、私が力のかぎり袖を振っているのを、はっきりと見ているだろうか」 当時の東国の人にとって、奈良の都もさることながら、九州は異国も異国だったことと思います。 「足柄の 吾を可鶏山の 穀(かづ)の木の 吾をかづさねも 穀割かずとも」 意訳「あなたがそれほどまでに思ってくださるならば、早く私を誘って下さい。可鶏山にある『かづのき』など割っていないで」 可鶏(かけ)山とは、背後にちょこっと見える矢倉岳のことだとされています。 竹の輪を空中に投げて、それを矢で射るのが矢倉岳の民間行事で、若い男女がそれを楽しんだそうです。 「足柄の 御坂畏み 曇夜の 吾が下這えを 言出づるかも」 意訳は「足柄の神の御坂を越えて行く時、峠の神に手向けして畏まるあまり、恋人の名前までつい口にしてしまった」です。 万葉集の時代はまだ平仮名が使われておらず、全て漢字の当て字で書かれています。 それにしても赤裸々な感情がよく表現されていて、1,000年以上も昔の話ながら、現代に通じる微笑ましさがあります。 「足柄の 箱根の峯呂の 和草の 花つ妻なれや 紐解かず寝む」 意訳「足柄の箱根の丘の上に生えている和草、その草の上に二人で寝て、どうして紐を解かないことがあろうか。あなたは花の妻ではないか」 和草とはハコネシダのことだとされていますが、なんとも表現がストレート過ぎて思わず笑ってしまいます。 足柄峠から続く足柄万葉公園のある尾根は、静岡県(小山町)と神奈川県(南足柄市)の県境でもあります。 古くは駿河国と相模国の国境でもあり、戦国時代には小田原の北条氏が足柄城に続く砦を築いて、駿河からの武田信玄の侵攻に備えたとされています。 足柄万葉公園で奈良時代の人々に思いを馳せながらも、意識は戦国時代に向いていました。 何気ない盛り土ですが、自然に出来たものとは思われず、これは土塁だと思われます。 これは堀切の跡のようにも見えます。 戦国山城を数多く見てきたせいか、人の手が加わった物には敏感になっているのが悲しい性です。 関連の記事 矢倉岳→こちら 足柄城→こちら 足柄関→こちら 足柄古道→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/02 11:49:50 AM
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