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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(大阪・兵庫編)
だんじりでお馴染みの岸和田は、元々「岸」が地名だったそうです。
和泉国守護であった「大楠公」楠木正成、その甥の和田高家が「岸」に城郭を築いたことから、「岸」の「和田」=「岸和田」となったと言われています。 個人的に崇敬している楠木正成に少しでもゆかりのある地とあって、その城郭を訪ねてみようと南海電鉄岸和田駅から歩き始めました。 (出張のついでだったので、ラジオ体操の時間くらいの早朝です) 事前の情報では土塁が一部残っているらしいのですが、比定される場所を探索しても、住宅地が続くばかりでした。 たまたま朝の散歩中の大将が通りかかったので、「この辺りに岸和田城の前の城があったらしいのですが、ご存知でしょうか?」と聞いてみると、即座に「岸和田城は場所が違うで。あっちの方や」とのことでした。 (「そんなん、わかってますがな」と思いつつ) 「その岸和田城の前に造られた城なんです」と言ったところ、「はて、、、待てよ。そう言えば『碑ぃー』があったな。どこやったかいな」とのこと。 そうこうしているうちにお散歩中の大将が続々集まってきて、「あれ。『碑ぃー』どこやったかいな?」などと、にわかに大騒ぎになってしまいました。 岸和田古城の「碑ぃー」 土塁も消滅してしまったようで、むしろ城跡碑がある方が奇特な感じがします。 完全に住宅地に埋もれている上、碑文には「和田氏居城伝説地」とあるので、「岸和田城の前の城」と聞くのは、聞く方が悪かったでしょうか。 城郭の絵図を見る限り、中世の武士居館というより、曲輪を備えた城郭に近い縄張りだったと思われます。 川の流域を活かした縄張りのようです。 血縁とは言え、楠木正成ゆかりの城跡を楽しみにしていたのですが、碑が残されているだけでも十分なのかも知れません。 それでも地名は歴史を語り継いでいて、バス停にその名残がありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/06/08 11:49:10 AM
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