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2015/10/31
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テーマ:城跡めぐり(1258)
1615年の大坂夏の陣で大阪城が落城してから、今年でちょうど400年になります。

天下統一を果たした豊臣政権の象徴とも言える大坂城でしたが、現在残る縄張りは豊臣時代のものではなく、江戸幕府によって改築されたものです。


大阪城二の丸大手門表門.JPG
二の丸大手門表門(現存、国指定重要文化財)

表門の先には枡形があり、正面には巨大な鏡石が置かれていました。

大阪城二の丸大手門枡形.JPG
枡形内部
「大手見付石」の表面積が約48平米、「大手門二番石」の表面積が約38平米と、大阪城で4番目と5番目の大きさがあります。

 
二の丸大手虎口の枡形は、なぜか左曲がりになっており、その先には多聞櫓が現存していました。
大阪城多聞櫓.JPG
多聞櫓(現存、国指定重要文化財)
大手門多聞櫓は1628年に造られましたが、1783年に落雷により焼失してしまい、1848年に再建されたものです。

縄張りのセオリーからすると、表門をくぐったら右側に櫓門があるはずですが、ここでは左側に櫓門があります。

二の丸大手虎口に限らず、大阪城では他にも左曲がりの枡形虎口がいくつかありました。
普請を間違えた訳ではないと思うので、何か意図があるのかと思います。


豊臣時代の大阪城の縄張りは黒田官兵衛によるもので、現在残る江戸時代の縄張りも、豊臣時代とあまり変わらないようです。

大阪城二の丸西外堀.JPG
二の丸西側の外堀
左側が三の丸で、右側が二の丸(西の丸)です。

二の丸の西側には、大手口の隅櫓である「千貫櫓」が見えています。
大阪城千貫櫓 (2).JPG
千貫櫓(現存、国指定重要文化財)
元和6年(1620年)の創建と、大阪城に現存する最古の建築物の1つで、かの小堀遠州による作事です。

千貫櫓は豊臣時代の大坂城にもあったようで、名前の由来はそのさらに前の織田信長時代の石山本願寺に遡ります。
石山本願寺に攻め込んだ織田信長軍は、ここにあった隅櫓からの横矢攻撃に悩まされており、「千貫払ってでもあの櫓を手に入れたい」と噂されたのが名前の由来です。


その石山本願寺の正確な位置は明らかになっていませんが、現在の大阪城の場所にあったことは間違いないようです。
二の丸には、石山本願寺の碑が建っていました。
大阪城石山本願寺跡碑.JPG


大阪城石山本願寺跡 (3).JPG
向こうに見える櫓は「六番櫓」(現存)です。


大阪城の縄張りは輪郭式で、本丸を中心に二の丸(西の丸)・三の丸が同心円状に配され、曲輪の周囲には堀が巡らされています。


江戸時代の大坂城では、二の丸の南西側に南仕切門があり、太鼓櫓が建っていたそうです。
大阪城南仕切門跡.JPG
南仕切門跡
太鼓櫓は明治維新の時に焼失しましたが、現在も残る切込み接ぎの巨大な石積みに、天下の城郭を見たような気がします。


現在残る城郭は江戸幕府による築城ですが、やはり大阪城と言えば「太閤さん」、石山本願寺のあったとされる二の丸南側には、豊国神社が建立されていました。
大阪城豊国神社.JPG
豊国神社

大阪城豊国神社豊臣秀吉像.JPG
豊国神社に建つ豊臣秀吉像
戦国武将の像は数々見て来ましたが、豊臣秀吉像を見たのはここが初めてです。



リングの形をした二の丸の西側一帯は「西の丸」の曲輪で、北の政所や徳川家康が一時期住んでいた場所でもあります。
大阪城西の丸.JPG
現在は「西の丸庭園」となっていますが、豊臣秀吉亡き後の当時では、ここが権力の中心になっていたのでしょうか。



二の丸の虎口は4ヵ所が残っており、南西が「大手口」、南東が「玉造口」、北東が「青屋口」で北西が「京橋口」となっています。
それぞれ東西南北を向いていないのは、本丸に直線的に入れないようにするためでしょうか。

大阪城二の丸京橋口枡形.JPG
北西「京橋口」の枡形

京橋口の枡形に積まれた鏡石は「肥後石」と呼ばれ、表面積約54平米と、大阪城の石垣石で2番目の大きさがあります。
大阪城二の丸京橋口枡形鏡石.JPG
肥後石
加藤清正が運んと伝えられたため、「肥後石」の名前がありますが、ここの普請は備前岡山の池田忠雄の担当でした。

そう言えば名古屋城の鏡石にも「清正石」の名前がありますが、実は黒田長政の担当だったりします。
やはり当時から藤清正は築城の名手として名高かったのでしょうが、実際に現在も残る熊本城の芸術的な石垣を見ると、大いに納得でした。


二の丸北西の京橋口から北東の青屋門にかけて、二の丸の北側は本丸より低い位置にありました。
大阪城本丸内堀 (3).JPG
二の丸北側から見た本丸
本丸石垣の屏風折れが見事ですが、石垣の普請は加藤清正ではなく、もう一人の築城の名手藤堂高虎です。
(加藤清正の「扇の勾配」に対し、直線的なのが特徴です)

大阪城の北側には旧淀川の安治川が流れており、支流の寝屋川などが合流してくる場所でもあります。
「水の都」大坂にあっては、商流・物流の動脈こそ大手口にあるべきで、この高低差を実際に見てみると、豊臣時代の大坂城の大手は北側にあったのではないかと思ってしまいました。
あくまで個人の感覚的なものですが、京橋口に「追手門学院」や「大手前病院」があったりして、地名も史跡として重視する立場としては、「もしかしたら」という感じです。


二の丸の北東側にある青屋口の虎口は、江戸時代の大坂城では搦め手虎口だったようです。
大阪城二の丸青屋門石垣.JPG
青屋門の枡形
搦め手だからという訳でではないでしょうが、石垣の積み方も「切込み接ぎ」ではなく、「打込み接ぎ」です。
さらに青屋門だけは「内枡形」ではなく、枡形が外に突き出す「出枡形」になっていました。

大阪城二の丸青屋門渡櫓.JPG
搦め手口に渡櫓があるあたり、さすがは大阪城といったところで、感服しきりでした。

そしてこの後、いよいよ本丸へと入って行きます。





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最終更新日  2017/06/08 11:47:51 AM
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