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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(静岡編)
大河ドラマの影響はこれほどまでに大きいのかと思い知らされました。
今回訪れたのは井伊氏発祥の地である井伊谷(いいのや)、ちょうど9年前のゴールデンウィークにも訪れたことがある場所です。 前回はわざわざGWにここを訪れる物好きは私くらいのものでしたが、今回はGWとあって次々に人が来ていました。 井伊谷城遠景 遠くから見ると、前回同様に何の変哲もない城山です。 それでも城山の周辺はすっかり様変わりしていました。 前回は登城道の位置もよくわからず、ようやく登城道を発見しても荒れ放題といった感じでした。 (そもそも当時ここを訪ねて来る人は、よほどの物好きだったと思います) 今ではあちらこちらに案内板が立ち、登城道もすっかり整備されていました。 案内図と縄張図 直虎(次郎法師)に色塗りがしてあって、何とも複雑な心境でした。 登城口 藪に覆われて荒れていた道も、本丸直下まで舗装されています。 すっかり綺麗に整備された登城道を登っているうち、9年前の記憶も甦っていました。 「確か途中に祠みたいなのがあった」と思い出していると、稲荷神社の鳥居が見えてきました。 確か前回は荒れ果てていて、近づくのも恐れ多いほどでした。 さらには当時、南側の斜面に竪堀らしき跡を認めたのですが、城の遺構であるかどうか、はっきりと確信はできませんでした。 後に本丸で標高図を見た時、「やはり竪堀では?」と思うようになりました。 そして東側の斜面に当時は帯曲輪のような削平地を認めたのですが、こちらも木と藪に覆われていて、近づくことすらできませんでした。 すっかり整備されてベンチまで置かれていますが、やはりここは帯曲輪跡でしょうか。 そして本丸直下にやってきました。 土塁もはっきりとわかります。 土塁の下に車輪の轍のような跡があるのは、気のせいでしょうか。 確か本丸虎口には横矢の掛かった土塁があったのですが、こちらはちゃんと健在でした。 本丸には朽ちた案内杭と看板があったくらいでしたが、観光地でよく見るあれがあるとは、思ってもいませんでした。 本丸 「せっかく来たのに何もない」という声を耳にしたのですが、それも無理はないと思います。 本丸には等高線を描いた地形図があって、よく見ると南側の斜面には窪地があり、北側と東側には削平地があるようです。 この地形図は非常に参考になります。 山頂を削平した中世の山城で、いざと言う時の詰め城だったと思いますが、幸いこの城が機能することはなかったようです。 本丸北側 本丸北側の土塁 昔から奥浜名は「井の国」と呼ばれ、鎌倉時代からの歴史を持つ井伊氏と井伊谷城の歴史は古く、井伊谷城は平安時代の1032年に、井伊氏の祖である井伊共保が築城したものです。 その名門の井伊氏でしたが、その後の大ピンチと大復活は大河ドラマの通りかと思います。 山城の井伊谷城は詰め城のような存在で、井伊氏の居館は山麓にありました。 その居館跡も、今は住宅や公民館の建つ敷地となっています。 井伊氏の名前は歴史上に数々出てきますが、桜田門外の変で知られる幕末の井伊直弼大老もその一人でしょうか。 井伊直弼が江戸時代に井伊氏発祥のこの地を訪れた時、居館跡に寄進した「井殿の塚」が今でも残っています。 それでも井伊氏を有名足らしめたのは、やはり大河ドラマで寺田心くんの演じる虎松(のちの井伊直政)でしょうか。 その井伊氏の菩提寺である龍潭寺も前回同様に訪れた場所でしたが、今回はあまりの人の多さに断念することとなりました。 前回は小堀遠州の庭園もゆっくり鑑賞することができたのに、今回は1時間以上待ちそうな雰囲気でした。 龍潭寺山門 今回の旅行では、井伊谷城以外にも遠州を訪ねてみましたが、どこも大河ドラマ一色で、すごい影響力を感じます。 もちろん大河ドラマによって今まであまり話題にならなかったことや、知らなかったことを発見できるのきっかけとなるのは、素晴らしいことだと思います。 ただ一過性のブームではなく、これからもずっと誇れる歴史や史跡であってほしいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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