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テーマ:城跡めぐり(1258)
秋田城を訪れるのも10年ぶりです。
前回訪れた時、ボランティアガイドの方がとても親切だったことを覚えています。 ガイド案内所の横にある説明看板を読んでいると、今回も早速ボランティアガイドの方が声を掛けてくれました。 前回訪れた時に概要は理解していることと、今回は日帰りの強行軍で次に訪れたい場所もあって時間があまりないため、ガイドの申し出は辞退しました。 秋田城は城郭というよりも古代の政庁跡で、外郭を築地塀で囲った縄張になっています。 現地にある復元模型 外郭の南側、「鵜ノ木」と呼ばれる一帯では、発掘調査によって掘立式の建物跡や井戸、沼などが復元されています。 古代沼 平安時代に作られた井戸で、現在も水が湧き出ています。 秋田城跡は高清水公園とも呼ばれ、阿部比羅夫が古四王神社をこの地に勧請した時、霊泉が湧いたので「高清水の岡」と称されたそうで、秋田のお酒「高清水」の由来ともなっています。 こちらの井戸からは「天平六年」(734年)の木簡が出土し、秋田城が高清水に遷された天平五年(733年)に造られたとされています。 鵜ノ木には元々秋田城付属の寺院である「四天王寺」が建てられたと推定され、当時では日本最北端の寺院だったそうです。 鵜ノ木では発掘された建物の掘立柱が復元されていました。 鵜ノ木にあるこれらの建物群は、都や外国のお客などの迎賓館だったともされています。 その根拠となったのが、日本最古の水洗トイレでした。 古代水洗厠舎(復元) ここの発掘調査により、当時の人が何を食べていたのかが明らかとなりました。 また、東日本で常食していたサケ・マスを中間宿主とする微生物がいないことから、この土地の人ではなく、都の人が使っていた可能性があります。 さらには当時の日本では食習慣のなかった豚に由来する微生物が発見されたことから、中国大陸の人が使っていたとも考えられています。 秋田城の外郭跡に戻ると、外郭東門と築地塀の一部が復元されています。 外郭東門と築地塀(復元) 外郭東門からは、政庁へと続く東大路も復元されていました。 政庁は独立した区画にあり、やはり築地塀で囲まれていたようで、こちらも門と築地塀が復元されていました。 政庁の中央部には、正殿の建物跡が復元されています。 正殿跡 詳細な発掘調査によって、古代の建造物や生活が甦ってくると共に、当時の技術や生活水準の高さにも驚きです。 現地にある政庁の復元模型 前回10年前に訪れた時、発掘品は収蔵庫に置かれていましたが、現在は歴史資料館が建てられ、詳しい解説と共に数々の出土品が展示されています。 かなり興味深い展示なので、一見の価値はあると思います。 律令時代に出羽国に築かれた出羽柵が秋田城の前身で、出羽柵が最初に文献に出てくるのは「続日本紀」の記述です。 秋田城歴史資料館にある続日本紀(複製) 天平5年(733年)に出羽柵が秋田村の高清水岡に遷されたことが書かれています。 昭和33年から本格的に始まった発掘調査により、建造物に始まる多数の出土品が発掘されました。 出土品の中には日本最古の貨幣である和同開珎や、墨で文字の書かれた食器などがあり、当時の人の交易の様子も明らかとなってきました。 秋田城は特に日本海対岸の中国渤海との重要な拠点とされていたようで、中央政府の重要な出先機関であり、外交窓口だったようです。 日本城郭協会「続日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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