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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(新潟・富山・石川・福井編)
富山県砺波市、和田山ダムのダム湖畔にあるのが増山城です。
増山城遠景 久々の戦国山城なのでワクワク感がありながら、昨年来この付近でクマの目撃情報が多発しているので、ドキドキ感もありました。 この縄張図では、各曲輪に一の丸・二の丸・三の丸の名称が付けられていますが、一般的な城郭とは違って、二の丸が本丸に相当するようです。 さらにはアルファベット表記の曲輪もあったりして、何だかややこしそうでした。 冠木門のある場所が登城道の入口になっていますが、大手口の場所については諸説あって、確証はないようです。 会津若松小田山での実戦経験を踏まえ、クマに遭遇した時の手順を今一度反復して、冠木門をくぐって行きました。 この夏について言えば、従来からの天敵であるヘビ・トカゲの爬虫類やスズメバチに加え、新たにクマが登場したこともあり、まさに「前門の虎 後門の狼」といったところです。 大手虎口(暫定) 登城道の周囲に目を向けてみると、堀切の跡が残っていました。 堀切の先には曲輪の跡があり、「F郭」と名付けられています。 F郭 アルファベット表記が入ってくると、本丸との位置関係がわかりづらいです。 F郭と一の丸の間には、さらに大きな堀切跡が残っていました。 一の丸の曲輪跡 一般的な呼称では、二の丸とか三の丸に相当するかと思います。 一の丸から見た二の丸の土塁 こちらも一般的には、「二の丸から見た本丸の土塁」となるかと思います。 二の丸の曲輪(本丸です) 二の丸の神水鉢 水が枯れることはないと言われ、この水に落とす月影で時刻を知ったと言われています。 二の丸には一段と高くなった場所があり、鐘楼堂の名前がありました。、 本当に小さな鐘があったので、クマ除けのためにカンカンに鳴らしておきました。 二の丸の北側には堀切があり、その先には「安室屋敷」と呼ばれる曲輪の跡があります。 二の丸と安室屋敷の間の堀切 安室屋敷 この曲輪については特定された名前が付いていますが、安室とは家督を譲って隠居した人のことのようです。 二の丸の南側には尾根続きに独立した曲輪があり、今度は「無常」の名前が付いていました。 二の丸の周囲には水の手がいくつかあり、二の丸の北側に「又兵衛清水」と東側に「馬洗池」があります。 又兵衛清水 この水を発見した家臣の名前に因んでおり、今も水が湧き出ていました。 馬洗池 城内には他にも湧水がいくつかあり、籠城戦での水の手確保には苦労しなかったようです。 又兵衛清水のある二の丸北東側には、石垣の跡もあるようでした。 藪に覆われてよくわかりませんでした。 二の丸の東側、馬洗池の先には三の丸の曲輪があります。 大手をどこに比定するかにもよりますが、個人的にはここを本丸(詰丸)とみるのが妥当なようにも思います。 増山城はすでに南北朝時代には築城されており、「和田城」の名前で登場しています。 室町時代になると、越中国守護代である神保氏の居城となりました。 戦国時代になると越後上杉氏に攻略されましたが、長尾景虎(のちの上杉謙信)は増山城について記述しており、 「増山之事 元来峻難之地 人衆以相当 如何も手堅相抱候聞」と、増山城の堅固さに触れています。 1581年には織田信長勢によって焼き払われ、以後は織田信長の下で越中を支配した佐々成政の拠点となりました。 佐々成政の時に、大規模な修築や整備が行われています。 豊臣秀吉の時代になると、1585年以降は加賀前田氏の支配下となり、増山城には城代が置かれていました。 そして江戸時代に入った1615年の一国一城令により、増山城も廃城となっています。 日本城郭協会「続日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/08/23 07:23:02 AM
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