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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(新潟・富山・石川・福井編)
江戸時代の越中は加賀藩の支配下にあり、越中高岡城も初代加賀藩主である前田利長によって築かれました。
大手口 高岡城の縄張は各曲輪の周囲を水堀で囲ってあり、まるで水城のような感じです。 広さは21万平米あり、その1/3が水堀です。 大手口には、見覚えのある意外な人物の像が建っていました。 摂津国高槻城で見たのと同じ高山右近像です。 高槻城址公園の高山右近像(2017年6月) 越中高岡の地名と高山右近の名前がなかなか結び付きませんが、高岡城は高山右近の縄張と言われています(異論もあるようです)。 キリスト教の信仰を守るために大名の地位を捨てた高山右近は、同じ千利休門下で知己のあった前田利家・利長の加賀金沢に身を寄せていました。 高山右近は政治や軍事の相談役になると共に、金沢城の修築なども手掛けたそうです。 (徳川家康の時代になると、高山右近は国外追放令を受け、金沢を去ってマニラへと渡っています) その高山右近が縄張を行ったであろう高岡城を、三の丸から順番に見て回ることにしました。 三の丸跡は市民体育館の敷地となっており、井戸だけが保存されて現存していました。 三の丸にはかつて七尾線・城端線・氷見線を走っていたC11型蒸気機関車が静態保存されていました。 お世辞にも保存状態は良いとは言えません。 三の丸からは外堀を隔てて、明丸の曲輪が配されています。 三の丸と明丸の外堀 明丸跡 現在は動物園と自然資料館の敷地になっています。 明丸から大手口のある鍛冶丸の間には、「桝形濠」と名付けられた水堀がありました。 桝形濠 一つ一つの曲輪が広いため、建物の敷地にするのには十分な大きさがあります。 鍛冶丸跡は博物館の敷地となり、二の丸は市民会館と護国神社の敷地になっていました。 鍛冶丸から見た本丸内堀 二の丸跡 二の丸の外堀 二の丸から本丸へと向かう途中には、唯一の石垣遺構が残っていました。 打込み接ぎの技法で、金沢城でも本丸で見られた積み方でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/08/26 07:54:27 AM
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