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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(香川・愛媛・徳島・高知編)
戦国の中世城郭はもちろんのこと、近世城郭でも建造物が残っているのは稀なことで、門や櫓の一つでも残っていれば良い方でしょうか。
ましてや天守が残っている城郭は全国に12城しかなく、伊予松山城の天守もそんな現存天守の一つです。 本丸から見た松山城天守 南北に長い松山城の本丸で、天守群のある北側は「本壇」と呼ばれています。 天守もさることながら、松山城の本壇には21棟の建造物が現存しており、いずれも国の重要文化財に指定されています。 本壇案内図 紫竹門東塀(現存、国指定需要文化財) 本壇の虎口、一ノ門の桝形 背後にあるのが大天守です。 一ノ門(現存、国指定重要文化財) 二ノ門と東塀と南櫓(いずれも現存、国指定重要文化財) 個人的には塗籠の「白いお城」より、板張の「黒いお城」の方が武骨でいいと思います。 三ノ門(現存、国指定重要文化財) 塗籠の「白いお城」がハイカラならば、板張の「黒いお城」はバンカラといったところでしょうか。 筋金門(復元) 筋金門東塀(現存、国指定重要文化財) ここはハイカラな塗籠の土塀になっています。 筋金門から見た天守 筋金門を抜けると、大きな桝形のような場所があり、「天守広場」となっていました。 多聞櫓(復元) 表玄関と内門(復元) 内門から見た天守(現存、国指定重要文化財) 内門の先はさらに桝形になっており、仕切門が続いています。 仕切門(現存、国指定重要文化財) 仕切門(外側から見たところ) 現存建造物はもちろんですが、昭和になって焼失した建造物も外観復元されているため、当時の意匠をうかがい知ることができます。 伊予松山城が築城されたのは1602年のことで、築城主は加藤清正や福島正則などと共に「賤ケ岳七本槍」で知られる名将、加藤嘉明です。 松山城のマスコットキャラクター(?)、「よしあきくん」 加藤嘉明が約26年の歳月をかけて築城した松山城でしたが、1627年の完成前に加藤嘉明は会津若松に移封となっています。 伊予松山20万石から会津若松40万石と大幅な加増ではありましたが、新居の完成前に転勤する心境はいかがなものだったでしょうか。 歴代伊予松山藩主 歴代会津若松城主(2017年6月、会津若松城にて) 加藤嘉明と入れ替わるようにして、会津若松から伊予松山に入封してきたのが蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)で、その時は24万石です。 そう言えば伊予松山を舞台にした夏目漱石の「坊ちゃん」で、坊ちゃんの盟友となる「山嵐」(数学の堀田)も会津の出身でした。 何かと縁があるのでしょうか。 JR松山駅前にある正岡子規の句碑 「春や昔 十五万石の城下哉」 15万石とは随分控えめと思いきや、松平定行の時は15万石だったようです。 日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/09/03 10:10:37 PM
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