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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(静岡編)
遠州掛川の城下を訪れるのは7年ぶりのことで、前回は旧東海道掛川宿の宿場町が目的でした。
掛川城天守から見た旧東海道掛川宿の宿場町 掛川城下に入ってみると、ここでも「井伊直虎ゆかりの地」の大河ドラマの幟が立っていました。 「井伊直虎は、かすったくらいかな?」と思っていたら、井伊直親が今川氏真に謀殺された場所が掛川城下だったようです。 前回訪れた旧東海道の街道筋には、大手門が復元されています。 大手門(復元) 実際の大手門は、50mほど南に行った旧東海道(県道37号線)沿いにありました。 さらに大手門の脇には、大手門番所が移築現存しています。 大手門番所 明治に入って掛川藩が廃藩になると、大手門番所も旧静岡藩士の居宅に払い下げられていましたが、1978年に掛川市に寄贈され、絵図から確認できる大手門脇に移築されたものです。 したがって、大手門と同じく本来の位置は南に50mほど行った旧東海道沿いにあり、街道から城内への警護を行っていたのかも知れません。 掛川城の南側には逆川が流れ、天然の要害になると共に、外堀の役目を果たしています。 現在は護岸されていますが、昔は堤防が欠ける「欠川」と呼ばれ、それが「掛川」の語源となったとされています。 天守から見た縄張 大手門はこの位置です。 外堀の役目を果たす逆川に加え、内堀はなぜか三日月堀になっていたようです。 三日月堀 三日月堀と言えば武田流の築城術です。 徳川と武田の争奪戦はあったものの、掛川城が武田氏の手に落ちたことはないはずで、不思議なものを見ている気がしました。 当時の縄張が残る掛川城の二の丸には、御殿が現存しています。 天守から見た二の丸御殿 二の丸御殿(現存、国指定重要文化財) 入口には戦国武将ゆかりのグッズなどが売られていて、ちょうど翌々日にアメリカに出張する予定があったので、お土産をいくつか買い求めました。 アメリカでは葵の御紋入りのグッズを渡して、「これを日本人に見せれば、大方の人は降参する」などと、わけのわからない説明をしていました。 封建制度のなかったアメリカ人に「将軍」を説明するのは難しく、とっさに「プレジデント」と訳しましたが、それも違ったように思います。 二の丸御殿は幕末の1861年に再建されたもので、中に入って見学することもできます。 藩主が政務を行った「上の間」 掛川城の二の丸御殿は将棋の王将戦が行われる場所でもあります。 第63期王将戦、第一回戦は渡辺明王将に挑戦者は羽生善治三冠(当時)です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/10/21 02:01:53 PM
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