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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(静岡編)
掛川城の本丸虎口には、正保の絵図に基づいて四足門が復元されています。
四足門 当時は主流の薬医門形式です。 正保の絵図を基にした縄張図 本丸の東側には「十露盤(そろばん)堀」が発掘復元されていました。 十露盤堀 水がたまった部分が算盤のように見えるから、この名前が付いたとされています。 掛川城本丸の周囲は総石垣ではなかったようで、土塁の下部にだけ石垣を積んだ「腰巻土塁」だったようです。 江戸城の桜田濠にも腰巻土塁が見られます。 ちなみに土塁の上部にだけ石垣を積んだ土塁は「鉢巻土塁」と呼ばれています。 (どこかで見た記憶があるのですが、思い出せません) そして天守に至る現在の本丸虎口には、「太鼓櫓」が移築現存しています。 太鼓櫓 幕末の1854年の地震後に再建されたもので、元は三の丸に建っていたものが移築されました。 天守は本丸の一段高い場所にあり、山内一豊が入城してから曲輪が築かれたそうです。 天守丸の土塀 途中で腰巻土塁から総石垣に変わっているのが興味深いところですが、このあたりは財政事情なのかも知れません。 天守丸北東側の石垣 それでも搦手方向はがっつり総石垣にしたかったのでしょうか。 現在の天守丸の曲輪の虎口には、冠木門が建てられています。 正保の絵図を見る限りでは、二階建ての櫓門が建っていたようです。 ちなみに夜間はライトアップされており、東海道新幹線の車窓からも浮かび上がる天守を見ることができます。 冠木門の先には「露吹井戸」がありました。 山内一豊が入城する前の1569年、掛川城を守る今川氏真に対し、徳川家康が掛川城を攻めた時、この井戸から霧が立ち込めて徳川軍の攻撃から守ったと伝えられています。 山内一豊が築いた天守は1604年の地震によって倒壊し、その後1612年に再建されましたが、1854年に再び倒壊しました。 世は平成になった1994年、絵図を基に再建されたのが現在の天守で、当時の絵図だけでなく、高知城の天守も参考にされました。 関ヶ原の戦いの功で遠州掛川から土佐高知に移封となった山内一豊ですが、高知城の天守を建てるにあたっては、旧居城であった掛川城の天守に似せて造ったとされています。 オリジナルの掛川城天守は残っていませんが、その高知城の天守は現存しており、掛川城の再建にあたっては逆に高知城の天守が参考にされました。 高知城天守(現存、2017年9月) 「タマゴが先か、ニワトリが先か」、確かに見覚えのある天守でした。 掛川城の築城は文明年間(1469年~1486年)に遡り、今川氏の家臣である朝比奈泰煕によって築城されました。 桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に滅ぼされると、その子今川氏真と徳川家康の間で攻防戦が繰り広げられました。 今川氏真が降伏開城した後、今度は遠州進出を狙う武田信玄と徳川家康の間で攻防戦となり、徳川家康が掛川城を守っていました。 1590年の小田原の役で徳川家康が関東に移封になった後、掛川城に入城したのは「功名が辻」の山内一豊でした。 掛川城の山内一豊像 関ヶ原の戦いの前、会津の上杉景勝を征伐する途中の小山評定で、東海道の進路を確保するため、山内一豊が徳川家康に掛川城の開城を申し出たのは有名な話かと思います。 関ヶ原の戦い後、山内一豊はその功績によって土佐に移封となっています。 高知城の山内一豊像(2017年9月) 騎馬像も高知ではかなり大きくなっていますが、これも山内一豊の人柄と千代夫人の才知の賜物でしょうか。 千代夫人像(2017年9月高知城にて) 時代は下って幕末になると、後の土佐藩主山内容堂が徳川幕府倒幕の急先鋒となっており、まったく皮肉としか言いようがありません。 日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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