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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(岐阜・三重編)
岐阜市内を見下ろす金華山は、「美濃のマムシ」斎藤道三の稲葉山城のあった場所であり、織田信長が「天下布武」を号令した岐阜城のあった場所でもあります。
現在は金華山の山麓に、織田信長の居館跡が発掘復元されています。 居館入口にある冠木門 当時の居館入口はもう少し西側にあったそうで、現在は「板垣退助遭難の地」として、板垣退助像が建っています。 元は神道中教院のあった場所で、1882年(明治15年)に自由党の党首板垣退助が暴漢に襲われた場所です。 その時の「板垣死すとも自由は死せず」は、よく知られている言葉かと思います。 岐阜公園の敷地内には、山内一豊と千代夫人婚礼の地の碑が残っていました。 前回2008年に岐阜城を訪れた時はまだ新しい碑だったので、大河ドラマ「功名が辻」の放映に合わせて建てられたものだと思います。 板垣退助にしても山内一豊にしても、今年の夏に訪れたばかりの高知城とは、何かと縁があります。 織田信長の居館は「千畳敷」と呼ばれ、岐阜城を訪れたポルトガル人宣教師ルイス=フロイスは、その時の様子を「日本史」に著わしています。 フロイスの「日本史」によると、三層四階建ての御殿風の天守閣が建っており、その内部は金箔と絵画で飾られた壮麗なものだったようです。 そうなると岐阜城には、安土城よりも前に天守が建てられていたことになります。 千畳敷の復元図 庭園には池があり、泉水が巡らされていたそうです。 居館の石囲い跡 通路跡 発掘調査では、織田信長時代の遺構に加えて、斎藤道三の時代の遺構も発見されていました。 斎藤道三時代の石積み 金華山へ向かうロープウェーから見ると、今も発掘復元が行われていました。 いつか織田信長の千畳敷が復元される日が来るでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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