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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(大阪・兵庫編)
千早赤阪村には上赤坂城と下赤坂城の2つの赤坂城があり、いずれも楠木正成が築城した楠木七城の1つに数えられています。
古典太平記の記述の中では、楠木正成が「赤坂城」で鎌倉幕府軍と籠城戦を繰り広げたとなっていて、上赤坂城と下赤坂城の区別はありません。 下赤坂城跡は千早赤阪中学校の校舎裏手にあり、現在は城址碑だけが建っていました。 土塁のようなものがありますが、現存する遺構ではないと思います。 城址碑 城の名前は「下赤坂城」ではなく「赤坂城」となっており、果たしてここが太平記の赤坂城なのでしょうか。 現在は城郭の遺構らしきものは全く残っておらず、「赤阪の棚田」の展望地だけが広がっています。 「日本の棚田百選」にも選ばれた赤阪の棚田 1331年、鎌倉幕府を打倒すべく、後醍醐天皇が笠置山で挙兵しました。 後醍醐天皇に呼応して挙兵したのが、大和吉野の護良親王と、河内赤坂の楠木正成です。 古典太平記の記述では、赤坂城はにわか造りの城だったとされています。 この時楠木正成は、鎌倉幕府軍を迎え撃つべく、領民500人と共にこの城に籠城していました。 一方の鎌倉幕府軍は数万の大軍で赤坂城を包囲、さすがの東国武士もこぼしたと言われています。 「こんなにわか造りの城は、片手に乗せて放り投げてしまえるではないか。一日くらい持ちこたえてもらわぬと、恩賞にあずかれまいぞ」と。 鎌倉幕府軍の数については諸説あり、「太平記」では30万人とされています。 実際には数万人だったとも言われていますが、「城攻め三倍の法則」からすれば、500人の楠木党に対しては数千人でも多いほどでしょうか。 恩賞を求めて赤坂城の斜面を登る幕府軍に対し、楠木正成がとった戦法は、いわゆるゲリラ戦法でした。 赤坂城に籠る楠木正成と河内の領民たちは、弓矢と刀で斬り込む鎌倉幕府軍のその上から、石や大木さらには熱湯まで浴びせかけました。 幕府軍もその度に損失を出し、撤退を余儀なくされています。 楠木党と鎌倉幕府軍の攻防戦は20日も続きましたが、急ごしらえの赤坂城にあって兵糧も尽きたため、楠木正成は赤坂城に自ら火を放ちました。 楠木正成が自害したと思って、幕府軍は楠木正成の遺体を探しましたが、それらしき遺体を発見することはできませんでした。 そして翌年、赤坂城を奪還すべく再びこの地に姿を現したのが、楠木正成です。 私本太平記(三)【電子書籍】[ 吉川英治 ] お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/11/14 06:57:11 AM
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