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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(大阪・兵庫編)
大阪府千早赤阪村にある二つの赤坂城、すなわち下赤坂城と上赤坂城のうち、どちらが古典「太平記」に出て来る「赤坂城」なのでしょうか。
そんなことを考えつつも、下赤坂城から上赤坂城にやってきました。 上赤坂城登城口 ここで車を降り、登山装備で歩き始めました。 現地にある上赤坂城縄張図 本丸直下までは一本道が続き、途中には木戸が設けられていたようです。 一の木戸跡 稜線上にある登城道では、一の木戸からずっと切通が続いていました。 「城阪」と呼ばれる登城道 楠木正成時代の遺構だと思うのですが、さすがに鎌倉幕府の大軍も一列縦隊で進まざるを得なかったことでしょう。 二の木戸跡 切り立った尾根上の登城道から西側の斜面を見ると、竪堀のような跡も見られました。 竪堀かどうかはわかりませんが、西側の谷に続いているのがポイントだと思います。 さらには横矢が掛かった場所もあり、石を切り出したような跡も残っていました。 古典太平記にある鎌倉幕府軍との籠城戦の中で、上から石を落として戦った記述と符合するように思うのですが、それは考えすぎでしょうか。 三の木戸跡 三の木戸から先は斜面もなだらかになり、曲輪や堀切の跡が見られるようになりました。 堀切上の「そろばん橋」 「茶碗原」の曲輪跡 そろばん橋からは南へと向きを変え、いよいよ本丸のピークへと続いていました。 四の木戸跡 これが最後の木戸です。 本丸手前の堀切跡 本丸直下では、本丸ピークをトラバースしながら道が続いており、金剛山方面との分岐点にもなっています。 ハイキングコースの道標みたいな感じですが、ここまでもあまり人が通った跡はなく、実は楠木正成の時代からこの道はあったのではないかと思います。 (現代においては、わざわざここを抜けて金剛山に行く理由がわかりません) 金剛山の先は大和の吉野であり、護良親王(後醍醐天皇の皇子)が挙兵した場所でした。 さらに道標にある「奉建塔」は上赤坂城の出城があったとされ、楠木正成の居館跡の近くにあることから、この道を使って倒幕のネットワークを作っていたとも考えられます。 もはや推理ゲームでしかないのですが、この道を楠木正成も歩いたと思うと、一歩一歩確かめるように本丸へと歩いていきました。 本丸直下 本丸から眺めると、南西側に河内平野を望むことができます。 さらに眼下には腰曲輪の跡も見られました。 この辺りは戦国時代になって改変された遺構だと思います。 本丸には「楠木城址(上赤坂城)」と書かれた城址碑が建っています。 城址碑 下赤坂城の城址碑は単に「赤坂城」となっていたので、もしかしたら古典太平記の「赤坂城」とは違うのでしょうか。 上赤坂城に限ったことではありませんが、遺構はなくとも地名が歴史を物語っているケースは多々あります。 例えば戦国城跡を探している時、地元の人に「城山」や「館山」の地名を聞くと、すぐ教えてくれたこともありました。 上赤坂城について言えば、「糞谷」の地名が残っているそうです。 すなわち、楠木正成が鎌倉幕府軍と戦った時の、ゲリラ戦とも符合します。 さらには、下赤坂城の南端から上赤坂城の南西側にかけて、不自然な帯状で「東阪(あずまざか)」の字があります。 これは鎌倉幕府軍、すなわち東国武士が赤坂城を包囲した名残ではないでしょうか。 下赤坂城と上赤坂城に限らず、千早赤阪村にはいくつもの城跡ネットワークがあったようで、赤坂城塞群と呼ばれています。 しかもこの城塞群の配置が、東阪の地名と一致します。 おそらくこの城塞群が古典太平記の「赤坂城」で、上赤坂城がその本城だったのかも知れません。 封建制度の鎌倉幕府軍に対し、楠木正成の頼みは河内の民衆でした。 民衆にも識字率の高まる中において、河内はその文字によって情報が伝わっていたでしょうか。 この城跡ネットワークはすなわち情報ネットワークであり、ネット社会の先駆けだったかも知れません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/11/15 08:14:40 PM
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