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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(大阪・兵庫編)
大阪梅田で妹夫婦と食事をした後、帰りの飛行機まで時間ができたので、少し寄り道してみることにしました。
伊丹空港の最寄り駅である阪急宝塚線蛍池駅から一駅、降りた駅は阪急宝塚線の石橋駅です。 昔ながらの古いアーケード商店街を過ぎ、母校のある待兼山を目指しました。 阪大坂 以前は細いアスファルト道でしたが、きれいな石畳になっていました。 30~50万年の日本にはワニが住んでいたようで、日本で最初にワニの化石が発見された場所が待兼山で、「マチカネワニ」と命名されました。 阪大坂の途中、かつての医療技術短大の跡地には大阪大学総合学術博物館が出来、ここにマチカネワニの化石が展示されているそうです。 残念ながら休館でした。 初めて知ったのですが、待兼山からは弥生時代の集落跡が見つかり、待兼山全体が「待兼山遺跡」となっているそうです。 中世の火葬墓跡 阪大坂を登り切ると、石橋口(裏口)へやって来ました。 正門は大阪モノレール柴原駅の近くにあり、理学部や基礎工学部、吹田キャンパスなどへ行くには正門を使うのが便利かと思います。 私の在学時は阪急石橋駅から遠い上に、理学部や基礎工学部、吹田キャンパスにも用がなかったので、正門はほとんど使ったことがありません。 (吹田キャンパスは行ったこともありません) 石橋口から入ると最初に見える建物が、旧浪速高等学校時代の校舎(大阪大学会館)です。 当時は「イ号館」と呼ばれていました。 イ号館から右に曲がると、私のいた経済学部の校舎があるのですが、当時よく通っていたのが「明道館」です。 これでもきれいになった方で、当時は本当にスラム街のような場所でした。 そして2階の中央には、今でも探検部の部室がありました。 遠征に行っているのでしょうか、扉には「不在」の表示と鍵がかかっていました。 入口の横に安全環付のカラビナがぶら下がっていて、アプザイレン(懸垂下降)の練習でもしているのでしょうか。 さらに「山猫出没注意」のステッカー、後輩たちも西表には行っているみたいです。 インターネットも普及していない時代、この扉の向こう側では限られた情報で行動計画を立て、装備品を並べていたのを思い出します。 もちろん遠征では予想外のことが多々起こったりしましたが、その都度仲間で知恵を出し合って乗り切ってきました。 そんなことを思い出していると、原点に帰ってきたような思いです。 私の在学時はすでにバブルは崩壊していたものの、明道館にはまだまだ熱気があふれていたように思います。 冬休みとあってか、学生の姿もまばらだったのですが、何だかおとなしい感じがして、少し寂しい気もしました。 時代が違うと言われればそれまでですが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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