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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(滋賀・京都編)
京阪伏見桃山駅から続く通りには「大手筋通り」の名前が付いており、この道が伏見城に至る大手筋でした。
大手筋に建つ御香宮神社の鳥居 御香宮神社の表門は、伏見城の大手門を移築したと伝えられています。 表門(移築現存、国指定重要文化財) 御香宮境内に入って見ると、伏見城石垣石の残石が置かれていました。 伏見城の石垣に使われていたようで、矢穴(ミシン目)も残っています。 豊臣秀吉が伏見城を築城するにあたり、御香宮神社は伏見城の鬼門除けとして、本丸の北東に移されました。 1605年には徳川家康によって現在の場所に戻され、境内には徳川家康によって造営された本殿が現存しています。 本殿(国指定重要文化財) 御香宮の土塀脇には史跡案内板があり、見てみると「『黒田節』誕生の地」とありました。 黒田長政の家臣である母里太兵衛が、福島正則の屋敷を訪れた際に何杯も酒を飲み干して、約束通りに名槍「日本号」を福島正則から貰い受けたという逸話です。 (なぜかこの手のエピソードには、福島正則がちょいちょい絡んできます) 黒田長政や黒田節と言えば福岡博多のイメージが強いのですが、実は黒田節の発祥は京都伏見だったようです。 実際の福島正則の屋敷は御香宮より北にあったようで、現在も「桃山福島太夫南町」などの地名が残っています。 伏見城の大手筋近くには、他に「桃山毛利長門西町」(毛利輝元)、「桃山長岡越中北町」(細川忠興?)、「桃山三河」(徳川家康)など、かつての大名屋敷跡と思われる地名が多く残っていました。 戦国時代には争い合っていた武将たちも、豊臣秀吉の統一政権の伏見城下では、屋敷を並べて仲良く住んでいたようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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