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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(神奈川編)
昨年4月に東京から横浜に引っ越してきて、10か月が経ちました。
自宅から100mも離れていない場所に城址公園があるのですが、まだ一度も訪れたことがありませんでした。 茅ヶ崎城がその城で、現在は茅ヶ崎城址公園として整備されています。 北側の城址公園入口 まだ雪が残っています。 現地の縄張図を見ると、独立した四つの曲輪が配された、典型的な中世城郭です。 縄張図 東西に延びる縄張となっており、東に行くほど比高が高くなっています。 北側の公園入口から入ると、中郭の土塁が現れ、西郭との間には桝形虎口の跡がありました。 虎口跡 西郭と中郭の間の空堀は特に幅が広かったため、堀底道が通っていたのかも知れません。 西郭と中郭の間の空堀(西郭から見たところ) 西郭は最も低い位置にあり、かつての三の丸が改変されたのかも知れません。 西郭 土塁を見ると、北条流の築城術だと思われます。 西郭から北側に回り、中郭の土塁の北側を過ぎると、中郭より一段低い場所に北郭の跡が残っていました。 中郭の北側土塁 北郭 後世になって増築された曲輪かも知れません。 北郭から一旦戻って土塁を上がると、中郭の曲輪跡が広がっていました。 中郭跡 掘立建物の礎石跡が発見され、ここが本丸として機能していたかも知れません。 中郭と東郭の間の空堀跡を通って南側の斜面に出ると、腰曲輪らしき跡が残っており、その先には堀切のような跡もありました。 腰曲輪跡 南側の腰曲輪南側には他にも腰曲輪の跡が見られました。 堀切跡? 発掘調査の結果、南側にも虎口があったようで、虎口の跡とされています。 北側と南側に虎口があったことになりますが、どちらが大手なのか判然としませんでした。 南に位置する小机城の支城として機能していたならば、南北に虎口があるのは自然な気がします。 東郭は最も高い位置にあったようで、再び階段を登った先に曲輪の跡がありました。 東郭 向こう側に見えるのが中郭の土塁と空堀跡で、ほぼ同じ高さにあります。 それにしても港北NTの住宅地の真ん中に、こんなに城郭遺構が残っているとは全く想像していませんでした。 (ちなみに横浜市都筑区の旧国名は、相模国ではなく武蔵国です) 発掘調査の結果、茅ヶ崎城の築城時期は14世紀末から15世紀前半と考えられ、北条氏以前の室町時代には築城されていたことになります。 この頃の武蔵国と相模国は関東管領上杉氏の支配にあり、その頃から小机城とは連携していたとも考えられます。 16世紀中頃には小田原北条氏の支配下となり、茅ヶ崎城も小机衆の配下にあったと思われます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/01/29 06:00:38 PM
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