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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(神奈川編)
幕末の日米修好通商条約で横浜が開港された時、外国人の居留地となったのが山手地区です。
「港の見える丘公園」から山手本通りに出ると、道路脇に旧居留地の境を示す道標が残っていました。 山手の居留地は断崖上の地形にあったため、「ブラフ(BLUFF)」と呼ばれ、住所も「BLUFF○○番地」のように表記されていたそうです。 「BLUFF 99 GARDEN」には、ブラフ積みと呼ばれるレンガ積みが残っていました。 ブラフ積み(猿島要塞で見た「フランス積み」の石積みです) 宅地の間や宅地と道路の段差に積まれていたもので、石材には房州石が使われていました。 その「BLUFF 99 GARDEN」向かいの山手本通り沿いには、外国人墓地がありました。 アメリカ海軍ペリー艦隊の乗組員を葬ったのに由来し、横浜開港後もここが居留外国人の墓地となりました。 幕末の攘夷派による生麦事件や井土ヶ谷事件の被害者を始め、明治初期に日本の文化に貢献した外国人もここに永眠しています。 山手居留地は関東大震災で大きな被害を受けましたが、山手資料館の建物だけは、震災前の明治期に建てられた木造洋風建築です。 1909年に本牧本郷村の中澤謙吉邸の洋館部分を移築したそうです。 その他の洋館は震災後に建てられたもので、震災後の1927年に復興事業として建てられた集合住宅が「山手234番館」です。 山手234番館 エリスマン邸 シイベルヘグナー社(現DKSH)の横浜支配人であったフリッツ・エリスマンの邸宅で、アントニン・レーモンドの設計により、1925年から1926年にかけて建てられました。 元々は山手町127番地にありましたが、1990年に現在の場所に移築・復元されています。 ベーリックホール イギリス人貿易商バートラム・ロバート・ ベーリックの邸宅として、1930年に建設された建物です。 現在は結婚式場として使われているようです。 横浜に限らず、外国人居留地の特長の1つは、各国各宗派の古い教会が同じ地区に建っていることでしょうか。 山手居留地にも横浜聖公会(英国国教会)とカトリック山手教会の聖堂が残っていました。 横浜聖公会聖堂 元々は1863年に関内の山下居留地に建てられたクライストチャーチが始まりです。 1901年、鹿鳴館やニコライ堂を設計したジョサイア・コンドルによって、現在の山手町235番地に2代目の聖堂が建てられました。 2代目の聖堂は関東大震災で崩壊し、現在の聖堂は1931年に建てられたものです。 カトリック山手教会も関内の山下居留地が始まりで、1906年に横浜天主堂が現在の山手に移って来ました。 やはり関東大震災で倒壊し、現在の聖堂は1933年に建てられたものです。 ミサの直後で聖堂前には信者の方々が大勢おられたので、画像は撮っておらず、カトリック山手教会のHPに聖堂の画像があります。 カトリック山手教会の前を通って、次は山手公園にやって来ました。 山手公園は居留地の外国人のために造られた公園で、日本で最初の西洋式公園だそうです。 山手公園には旧山手68番館が移築され、現在は公園管理事務所になっていました。 1934年に竣工した木造の洋風建築です。 旧居留地を歩いていると、幕末から明治への日本の近代化がいかに急だったかがわかります。 現代の生活では当たり前のことも、実はこの頃に始まったことだったりして、そんな横浜山手居留地発祥のあれこれもありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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