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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(神奈川編)
江戸幕府による「鎖国政策」には、ネガティブな印象を持っていません。
むしろ鎖国の250年間で文芸・工芸・美術など、現在にも誇れる日本独自の文化が完成されたと思っています。 それでもその独自の文化を守るため、近代化は早晩避けて通れなかったかも知れません。 その鎖国政策の終焉となったのが1854年の「日米和親条約」で、その締結の地が横浜でした。 開港記念広場にある「日米和親条約調印」の碑 調印の相手は、アメリカ合衆国東インド艦隊司令官ペリー提督です。 ペリー提督の応接所となっていた場所には、横浜開港資料館が建っています。 1931年(昭和6年)にイギリス総領事館として建設され、1981年(昭和56年)から横浜開港資料館となっています。 1854年の日米和親条約の4年後、1858年には日米修好通商条約(いわゆる安政の五箇国条約)が締結され、横浜港が開港されました。 開港当時、横浜の中心部は東海道神奈川宿のあった場所でしたが、実際に開港されたのは辺鄙な「横浜村」でした。 当時の横浜港があった「象の鼻」 横浜開港に伴い、神奈川奉行所の管轄下に「運上所」が置かれ、関税と外交の事務を行っていました。 県庁の敷地内に建つ運上所跡の碑 横浜が開港された4年後の1858年、外国人居留地が造られましたが、当初は日本風の建築だったそうです。 1866年の火災で外国人居留地が焼失すると、洋風の建築へと変わりました。 火災後に居留地の大規模区画整理の設計したのが、イギリス人のリチャード・ブラントンです。 横浜公園にあるブラントン像 防火帯を兼ねて造られたのが現在の「日本大通り」で、日本大通りによって外国人居留地と日本人居留地が分けられることとなりました。 1870年当時の地図 南北が逆になっていますが、真ん中の大通りが日本大通りで、左側(東側)が外国人居留地、右側(西側)が日本人居留地です。 現在の日本大通り 北向きのため、左側(西側)が旧日本人居留地で、右側(東側)が旧外国人居留地です。 日本大通りの南側には、外国人も日本人も両方が利用できる公園が造られ、その公園が今の横浜公園です。 現在は横浜スタジアムが建ち、照明塔とバックスクリーンが見えています。 旧外国人居留地時代の山下を歩いてみると、意外にも当時の遺跡があったりしました。 英国一番館跡 開港と同時に貿易を始めた「ジャーディン・マセソン商会」の跡です。 山下居留地48番館 ダイナマイトを扱っていたモリソン商会の建物で、関東大震災で被害を受けたものの、横浜では現存する最古の洋風建築物です。 和蘭式野戦砲 横浜開港の前、松代藩の佐久間象山が横浜警護のために使用したと言われています。 横浜天主堂跡 1862年に居留地80番地に建てられたカトリックの天主堂で、1906年に山手44番地に移転しました。 関東大震災後に再建されたのが、現在の山手カトリック教会です。 そして日本人にはなじみの深い人も山下居留地に住んでいました。 ヘボン博士邸 読みでは「ヘップバーン」となるのでしょうが、ヘボン式ローマ字の生みの親です。 横浜開港後に造られた山下居留地でしたが、火災後の1867年には山手居留地が造られました。 山下と山手の境にある堀川は、今も残っています。 堀川 右側(東側)が山下居留地で、左側(西側)が山手居留地です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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