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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(鳥取・島根編)
鳥取城は標高263mの久松山(きゅうしょうざん)の山頂部と山麓部にあり、城跡は久松公園として整備されています。
久松山遠景 鳥取市内は一面の雪景色だと想像しており、久松山も雪中登山になると思っていたので、少し安心しました。 鳥取城は、久松山の山麓部分の「山下ノ丸」と、山頂部分の「山上ノ丸」に分かれています。 「山下ノ丸」縄張図 久松公園碑 「山下ノ丸」には近世城郭の跡が残っており、大手のある西側には外堀が一部残っていました。 外堀 かつて大手口の外堀には擬宝珠橋が架けられ、擬宝珠橋の先に中ノ御門がありましたが、現在は復元工事中のようで、大手口から入ることはできませんでした。 かつての擬宝珠橋と中ノ御門跡 外堀の北側にはもう一つの虎口である「北ノ御門」があり、こちらから入城することにしました。 北ノ御門跡 元々はこちらが大手口でしたが、池田長吉による改修の時、大手口が中ノ御門に変わったそうです。 北ノ御門を入った登城道の北側には、かつて城代屋敷・上御厩・米蔵などが建っており、現在は鳥取県立博物館の敷地になっています。 県立博物館の向かい側、かつて扇御殿のあった場所には、木造の洋館である「仁風閣」が残っていました。 仁風閣(国指定重要文化財) 仁風閣は明治40年の竣工で、大正天皇が皇太子時代に山陰を行啓した時、宿舎として建てられたものです。 「仁風閣」の名称は、行啓の時に随行した東郷平八郎海軍大将によって命名されました。 西洋建築である仁風閣の裏手には、日本庭園である「宝珠院庭園」がありました。 1863年、第12代鳥取藩主である池田慶徳が、若くして未亡人となった先代池田慶栄の夫人、宝隆院を慰めるために造営した庭園です。 宝隆院庭園から大手口登城道に入ると、中ノ御門に続く二ノ門である「太鼓御門」の跡がありました。 太鼓御門跡 かつては渡櫓のあった櫓門形式で、現在は桝形の跡が残っています。 鳥取城には三の丸・二の丸と天球丸の曲輪があり、現在三の丸跡は鳥取県立鳥取西高校の敷地となっています。 三の丸跡 江戸時代中期からは、ここに藩主の御殿が置かれていました。 二の丸と天球丸には石垣が残っており、太鼓御門からは二の丸と天球丸の石垣を見上げる格好になります。 二の丸の石垣 天球丸の石垣 花崗岩の石垣に、西日本の城郭を感じます。 鳥取城の石垣には、全国の城郭で唯一ここでしか見られないものがあります。 天球丸の曲輪の南側に回ってみると、その石垣を見ることができました。 天球丸の巻石垣(復元) 巻石垣は川の護岸や港の突堤に用いられますが、城郭で利用されるのは鳥取城以外に例がありません。 1807年頃に石垣の崩落を防ぐ目的で築かれ、川の護岸や港の突堤に関わりのある職人によって築かれたと推測されます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/02/26 11:12:44 PM
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