|
テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(千葉編)
上総国の一之宮である玉前神社を擁する千葉県一宮町は、江戸時代に一宮藩が置かれた場所でもあります。
一宮藩の藩庁があった一宮城は、城跡よりも陣屋跡といった印象でした。 復元された模擬大手門 かつて江戸時代にもここに大手門があったようです。 すでに戦国城郭の面影はなく、遺構も藩庁の建物があったと思われる削平地が残っているだけでした。 一宮藩には武道所である振武館があったそうで、現在はその振武館が再建されて、武道場として使われていました。 振武館(再建) 振武館の裏側に回ってみると、土塁と思われる跡がコンクリートで固められ、土塀が復元されていました。 画像ではわかりづらいですが、九十九里の海岸線と太平洋を望むことができます。 一宮城の築城主や築城年代は明らかになっておらず、城主やその歴史も諸説あって判然としていません。 しかもその諸説も落城に関するものばかりです。 ・内藤久長が城主であった1562年、館山城主里見義頼(里見氏第7代当主)・万木城主土岐頼治・大多喜城主正木盛賢に攻められて落城した。 ・糟谷大炊介が城主であった1562年(または1565年)、勝浦城主正木時忠・時通親子に攻められて落城した。 ・豊臣秀吉による小田原攻めの1590年、徳川四天王の一人、本多忠勝に攻められて落城した。 (小田原攻めの時、北条氏と争っていた里見氏は豊臣秀吉方についたため、これが史実ならば一宮城は里見氏ではなく北条氏の配下にあったことになります) いずれにしても北条氏と里見氏の勢力圏の境目にあったことは間違いなく、北条氏と里見氏の間で一宮城の支配権が度々変わったことが窺えます。 北条氏滅亡後の1592年には、大多喜城主となった本多忠勝の配下になり、江戸時代に入っても大多喜藩の領地でありました。 一宮藩が成立したのは江戸時代も後期の1826年のことで、一宮藩が存在したのは約50年ほどでした。 里見義堯 北条の野望を打ち砕いた房総の勇将【電子書籍】[ 小川由秋 ] お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/06/18 10:12:34 PM
コメント(0) | コメントを書く
[城跡と史跡(千葉編)] カテゴリの最新記事
|