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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(群馬編)
利根川水系の烏川が後背を流れ、中仙道を抑える要衝にあるのが倉賀野城です。
烏川 旧中仙道倉賀野宿に復元された高札場(2013年9月) 倉賀野城跡は住宅地となっていて、本丸があったと思われる広場には城跡碑だけが建っていました。 史跡めぐりのイベントツアーでしょうか、地元ガイドの方が倉賀野城について解説されていました。 倉賀野城に限ったことではありませんが、地元のボランティアガイドの方の見識の高さには感服します。 何よりも地元の歴史を伝えようとする熱心な姿には、頭が下がります。 城址碑 本丸跡から烏川の河岸を眺めると、腰曲輪のような削平地がありました。 果たして城郭の遺構かどうかはわかりませんが、烏川の水流を引き入れた空堀のような跡も見られます。 本丸跡から少し離れた場所、かつて二の丸のあった所には井戸八幡宮が祀られていました。 元々は三の丸に祀られていたもので、1646年に三の丸から突然水が噴き出したことから、井戸八幡宮と名付けられています。 倉賀野城の築城は知承年間(1177年~1181年)のことで、武蔵児玉党の秩父高俊がこの地に移り、倉賀野氏を名乗ったのが始まりとされています。 以後は代々倉賀野氏の本拠となっていましたが、戦国時代に入ると小田原北条氏の北関東進出に加え、武田氏VS上杉氏の最前線にあったりして、なかなか忙しい城だったと思います。 倉賀野氏は上杉氏や箕輪城の長野氏についていたため、武田信玄による箕輪城攻めの時は、箕輪城の支城としての役割を担っていたようです。 最後は小田原北条氏についていたため、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの時、他の関東諸城と同じく、廃城する運命となりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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