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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(新潟・富山・石川・福井編)
これまで山登りやスキーで新潟県を訪れたことはあったものの、城めぐりで訪れるのは初めてです。
(これでついに47都道府県の訪城空白県はなくなりました) 越後で最初となる訪城は、もちろん春日山城です。 春日山神社に立つ旗印を目にした時は、「ついに春日山城にやって来た」と、感慨もひとしおでした。 「毘」の旗印 春日山神社 春日山神社が登城ルートの起終点となっており、春日山神社から右回りに行くと搦手からの登城、左回りに行くと大手からの登城となります。 左回りの最初には上杉謙信の像が建っており、近くの売店の人が謙信公を「御館様」と呼んでいたのが印象的です。 上杉謙信像を過ぎると、いよいよ春日山城の全景が見えてきました。 天然の谷が巨大な堀切の役目を果たしており、春日山全体が要塞といった感じです。 このダイナミックな縄張は迫力満点で、むしろ威圧感さえありました。 こんな感覚を持ったのは、毛利元就の吉田郡山城以来でしょうか。 春日山城は山頂からの稜線に沿って曲輪が配されており、正面の稜線が三の丸から本丸に至るルートです。 稜線上には重臣の屋敷も置かれていたようで、三の丸の直下には甘粕景持の屋敷跡がありました。 「甘粕近江守宅阯」と書かれた碑が建っていました。 三の丸は「三郎景虎屋敷跡」や「米蔵跡」の総称で、「三の丸屋敷跡」と呼ばれています。 米蔵 背後には土塁が残っていました。 北条氏康の七男で、上杉謙信の養子となった上杉景虎屋敷跡 上杉謙信には嫡子がおらず、家督の後継先も決めていなかったため、上杉謙信の死後は家督をめぐる内紛が起きました。 この内紛「御館の乱」で、上杉景虎は同じく養子であった上杉景勝に敗れ、自害しています。 今回は行きませんでしたが、上杉景勝の屋敷跡も南西側の稜線上にありました。 実際に現地を訪れてみると、上杉景虎の屋敷の方が春日山城の中枢部に近く、上杉謙信は景虎の方を後継者に考えていたのではないかと思ったりもします。 三の丸の全景 手前が米蔵跡で、向こう側が上杉景虎屋敷跡です。 三の丸からさらに稜線上を登ると、二の丸の曲輪にたどり着きます。 二の丸 二の丸から眺めると、三の丸がはるか下にあり、その先には春日山城の城下町(上越市)が広がっていました。 稜線の上の方に目を向けると、いよいよ本丸が迫っていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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