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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(新潟・富山・石川・福井編)
春日山城の本丸は、標高180mの春日山の山頂部にあり、隣接する天守台と共に、「お天井」と呼ばれていたそうです。
本丸跡 上杉謙信もここに立っていたことでしょう、同じ場所にいると思うだけで感無量です。 本丸に建つ城址碑 天守台跡 天守台といっても石垣はもちろん、礎石の跡などもなく、本当に天守が建っていたかどうかはわかりません。 天守台から眺めると、眼下に曲輪と思われる削平地がありました。 柿崎景家の「柿崎屋敷跡」(?) 本丸から城下を見ると、スタート地点の春日山神社がはるか遠くに見えていました。 本丸からは北側の稜線に沿って搦手方向へと下りて行くのですが、本丸直下には宗教的な建物が並んでいたようです。 上杉謙信と言えば毘沙門天、出陣前に籠っていた毘沙門堂の跡が本丸のすぐそばにありました。 諏訪堂と毘沙門堂跡 「諏訪堂」の名前が気になりますが、武田信玄に侵略された諏訪を思って建立されたのでしょうか。 また、上杉謙信は護摩を焚いて戦勝や息災を祈願したとされ、その護摩堂の跡もありました。 護摩堂跡 現在は護摩堂から下りたところに毘沙門堂が復元されています。 この毘沙門堂には上杉謙信が信仰した青銅製の毘沙門天が安置されていますが、上杉景勝の時代に会津若松を経て米沢に移されました。 米沢では1849年の火災で被害を受けたため、1928年に東京美術学校(現在の東京藝術大学)の高村光雲に修理を依頼、分身が作成されて1930年にこの場所に安置されました。 救いを求める人を見過ごしにできず、秩序と義を重んじながら、領土的な野心を持たなかったのが上杉謙信です。 青春ドラマを地で行くような、そんな上杉謙信が信仰していた毘沙門天は、悪魔を降す神だとされています。 何度も盟約を反故にして他国を侵略する武田信玄、救いを求めてきた旧関東管領上杉憲政の領地に踏み込んでくる北条氏政(というより弟の北条氏照)や、秩序を顧みない織田信長などは、まさに毘沙門天の制裁を加えるべき相手だったでしょうか。 その復元された毘沙門堂の下には、「御花畑」と名付けられた、およそ戦国城郭に似つかわしくない名前の曲輪がありました 御花畑跡 実際は薬草園だったようですが、戦国山城の本丸付近で、奇特なものを見ている気がしました。 それにしても上杉謙信は不思議な武将だと思います。 越後を統一して国主の座にありながら、国人の謀反や度重なる他国との争いに嫌気がさし、突然国主の座を捨てて、高野山に出家してしまったことがありました。 この時は家臣団が連れ戻して事なきを得ましたが、これが上杉謙信なんだと思います。 本丸の背後には井戸曲輪があって、大井戸が残っているのですが、あまりの暑さにこれ以上のアップダウンは出来ませんでした。 御花畑を後にしてさらに稜線を下ると、さらに筋金入りのあの「天地人」の屋敷が待っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/08/18 09:23:16 AM
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