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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(栃木編)
飛山城にある曲輪Ⅰ~Ⅶまでの七つの曲輪のうち、曲輪Ⅳと曲輪Ⅴが逆L字型に本丸を囲っており、この二つの曲輪が二の丸の機能を果たしていたと思います。
現地にある縄張図(曲輪の名称は後から追記しました) その二の丸を歩いていると、群生する曼殊沙華に出会いました。 なぜこの花はこの季節になると、申し合わせたように一斉に花を開くのでしょうか。 二の丸(曲輪Ⅳ)には掘立柱の建物が建っていたようで、発掘調査に基づいて建物が復元されていました。 本丸(曲輪Ⅰ~Ⅲ)の虎口付近に建っていることから、本丸を守る将兵の詰所と考えられています。 建物そのものは地味で華やかさはありませんが、史実に基づいて出来る限り当時のままに復元することで、城跡の価値は高まるものだと思います。 二の丸と本丸の間には「2号堀」という空堀があり、こちらは複雑に折れ曲がっていました。 本丸を固める空堀だけあって、堅固な印象です。 本丸の「出隅」 物見櫓が建っていたのかも知れません。 その本丸との間には、木橋が架けられていました。 三の丸と二の丸の間は土橋が架けられていましたが、二の丸と本丸の間は、いざと言う時に外せる木橋です。 さらには本丸に直進できないよう、橋の手前は鈎の手状に曲がっています。 その本丸の背後には鬼怒川が流れており、搦手を守る要害となっていました。 飛山城跡は、まるで戦国城郭造りの教科書のようなセオリー通りの縄張で、しかもその遺構が史実に基づいて丁寧に復元されていました。 戦国城郭の全てを見るならば、飛山城を訪れれば事足りるとも思ったほどです。 なぜこの城が日本100名城にも続日本100名城にも選ばれなかったのか、やはり不思議です。 飛山城は宇都宮氏と関係の深かった芳賀氏の拠点でした。 宇都宮氏と芳賀氏の関係は古く、「吾妻鏡」には1189年の奥州阿津賀志山合戦で、「宇都宮左衛門尉朝綱郎従 紀権守・波賀(芳賀)次郎大夫(高親)巳下七人」が戦功を挙げ、源頼朝から恩賞を与えられたと記録されています。 この頃の芳賀氏の居城は御前城(真岡城の前身)であったと考えられていますが、永仁年間(1293年~1298年)に芳賀高俊によって飛山城が築城されました。 飛山城築城の目的は、宇都宮氏との関係強化のため、宇都宮城に近いこの場所に築いたとされています。 さらに宇都宮氏と芳賀氏の関係は続き、1333年には鎌倉幕府の命により、宇都宮高綱(のちの公綱)と共に、四天王寺の合戦に参戦しましたが、この時の合戦の相手こそが「大楠公」楠木正成でした。 「太平記」の中での楠木正成の言葉として、「宇都宮氏は坂東一の弓取りである。紀(益子氏)・清(芳賀氏)両党は、もとより戦場に臨んで命を捨てることを何とも思わない」とあり、かの楠木正成も宇都宮・芳賀軍とは決戦を避けたそうです。 (飛山城の周辺には「清原」の地名を冠した名前をよく見かけましたが、この頃の芳賀氏は清原氏を名乗っていたようです) そんな宇都宮氏と芳賀氏でしたが、戦国時代にはありがちな内紛で関係が悪化した時もありました。 芳賀高照の時、那須高資と組んで主家の宇都宮城を占拠しましたが、芳賀氏の当主である芳賀高定は本拠地の真岡城で宇都宮城奪還をうかがっていました。 のちに北条氏康の意を受けた壬生氏が宇都宮城に入るものの、常陸太田の佐竹義昭の援軍を受けて、飛山城は宇都宮城奪還の前線基地として機能しています。 その後も「反北条」の基地として、佐竹氏や結城氏と共に北条氏に対抗していましたが、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の後、「いらざる城は破却せよ」との命を受けて、飛山城も廃城となりました。 関東では1590年に廃城・落城となった城は数多くありますが、反北条方でありながら廃城の憂き目にあったのが飛山城です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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