2010年 3月14日(日) 四旬節第4主日 C年
http://blogs.yahoo.co.jp/takefumistay77/12898729.html写真:美しき日々http://www.vap.co.jp/beautiful/でミンチョルがヨンスにプロポーズをして永遠の愛を誓ったカトリック明洞教会。 http://www.mdsd.or.kr/(カトリック明洞教会)ルカによる福音 (ルカ15・1-3,11-32) そのとき、徴税人や罪人(つみびと)が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。 「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩(ほうとう)の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉(ききん)が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇(やと)い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐(あわ)れに思い、走り寄って首を抱き、接吻(せっぷん)した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕(しもべ)たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物(はきもの)を履(は)かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠(ほふ)りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒(おこ)って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背(そむ)いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊(こやぎ)一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦(しょうふ)どもと一緒にあなたの身上(しんしょう)を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」 ヨシュア記 (ヨシュア5・9a,10-12) その日、主はヨシュアに言われた。「今日(きょう)、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱(ちじょく)を取り除いた。」 イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭(すぎこしさい)を祝った。過越祭の翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒(い)り麦にして食べた。彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。 使徒パウロのコリントの教会への手紙 (二コリント5・17-21) 皆さん、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。 黙想のヒント イエスのそばに近寄った人々の中には"罪人"と言われる人が多くいました。彼らは自分の重荷から癒されたかったのでしょう。しかし、彼らがイエスに認められるようになると、ファリサイ派や律法学者たちは、イエスに不平を言い始めます。父から与えられたイエスのミッションは一つです。この世に神の愛を示すこと。自分が何を言われても、ただ、自分の教えを望む大勢の人びとが、神のあわれみを心で理解できるように、たとえで話します。父親はあわれみ深い神の姿です。帰ってくる息子をわが子として受け入れ、すべてを赦します。共にいることが大きな喜びなので、それを祝うのは当然です。これに対して反発し、怒る長男をも迎え入れ、共に喜んでくれと願うのです。共にその喜びに参加すれば皆が一つとなり、父親の喜びは満たされます。イエスは「医者が必要なのは病人である。」と言われます。しかし、わたしたちの理解は乏しく、ファリサイ派の人々のように、自分の病を認めるよりは、むしろ簡単に兄弟を裁いています。それは自分の弱さを見えないところに隠しておきたいからでしょう。今まで注がれてきた父親からの愛情を十分に生かさなければ、恥ずかしさを感じて父親の顔を見ることが出来ないでしょう。しかし、神の慈しみは永遠です。神の赦しは統全ての人に及びます。ただ自分が弱さを認め、哀れんでください、と願うならば。父親の広い心で、人々を自分の兄弟として受け入れ、何も要求せずに、共に食卓に座ることを学びたいものです。