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タコ社長,オーストラリア・メルボルンのスローライフな日々

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タコ社長1952

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2013年10月14日
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テーマ:海外生活(7773)
サラリーマン時代、東京で接待に使ったのは赤坂にあった「ニュー・ラテン・クォーター」で、京都では、三条大橋にあった「京都ベラミ」だった。そして、自分達だけの社内接待に頻繁に行ったのが、六本木にあって男女のトイレが一緒だった「クラブマキシム」だった。因みに、このトイレで小用を足しているとき、「あ~らタコさん、お久しぶりね。」とミハルさんから背中を叩かれて立ち往生してしまったことがある。昼には全く元気のないサラリーマンの私、日が暮れると俄然守備範囲がぐーんと広まった。

1978年の8月から1984年の9月まで、ある建設機械メーカーの海外営業部に籍を置いていた。その前の別の部署での2年半を加えると9年弱のサラリーマン生活だった。

当時、赤坂には、「コパカバーナ」「花馬車」「ゴールデン月世界」「ミカド」そして、「ニュー・ラテン・クォーター」という大型ナイトクラブ、またはグランドキャバレーがあって、接待の場所には事欠かなかった。大型ナイトクラブ、キャバレーの全盛期が続いていた。

その中でも、「ニュー・ラテン・クォーター」は、結構頻繁にお邪魔していた。英語の分るホステスも多く、外国人の接待にはもってこいだった。そしてあの、誰もが一度は乗ってみたかった「はとバス」夜の東京観光の中に、「ミカド」が入っていた。中国人のクライアントを「ミカド」で接待している時に、二階席にどやどやと「はとバス」の一行が入ってきてビックリしたことがあった。因みにこのクライアント、ホステスが膝に手を置くと震えていた。悪いことをしてしまった。私は、膝に手がないと震える方だったが。

「ニュー・ラテン・クォーター」は何しろ店に入るときに下りる真っ赤な絨毯の階段が豪華にできていて、上品さは天下一品だった。トイレに専用のお世話の方がいて用が済むとサッとタオルをだす。そのたびに100円のチップを払っていて、オシッコなどと言ってはもったいない雰囲気さえあった。

「タコさん、いいんだよ、すべて諸岡さんに任せておけば。」部長がそういった諸岡さん、ここの主のようなマネージャーで、すべては彼に話せばことがスムースに進んだ。どんな女性をテーブルに呼ぶとかは、担当の女性がいてその女性が仕切ってくれた。

ここは、昭和38年に力道山が刺された所だった。力道山は、その一週間後になくなっている。あの時、39歳だったと知って若かったんだなと驚く。当時は雲の上のスーパーヒーローだった。

幼稚園の頃、歩いて10分くらいの所にあったタバコ屋さんで、生まれて初めて多くの人と一緒にプロレスを見た時、怖くて怖くて震えて歯が鳴った。白黒テレビで小さな画面だったが、黒いタイツ姿の力道山が大きく見えた。「おい、この子震えてるよ。」っとどこかのオジサンに笑われて警察官の子供らしくない振る舞いを恥じた。

「ニュー・ラテン・クォーター」のトイレに入るたびに、力道山のことが過ぎった。子どもの時のヒーローだったからだろう。小用の震えと、子供の時の震えが入り混じる。力道山が使った便器かと思うと拝みたい気にもなったものだが拝みはしなかった。

ロサンゼルスから来いて「ニュー・ラテン・クォーター」で踊っていたダンサージョイを浅草に連れて行ったときは、180センチはあろうかというジョイの美貌と体型に俄然視線が集中してうるさいくらいだった。そして、どんな男が連れているのかと私を見る視線が「何だこの程度の男か!」的なものが圧倒的で、マゾ度100%の一日となった。分不相応、という言葉を肝に銘じた。

1984年9月、私はサラリーマンを自ら辞めてオーストラリア移住を夢見、日本語教師になる勉強を始めた。当然、クラブ活動は終了、退職前に溜まりに溜まったクラブ請求書は潔く後輩に譲ることにした。

毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
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タコ社長の本業・オーストラリア留学

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Last updated  2013年10月14日 10時47分34秒
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