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テーマ:海外生活(7773)
カテゴリ:移住模索期
建設機械メーカー海外営業部に所属していたサラリーマン時代、担当はインドとパプアニューギニアだった。どうして、金髪大柄の多いアメリカとか、美人の多いことで知られているポーランドとかじゃいのだろう、と文句の一つもいいたいところだったが、仕事も覚束ない新米社員の頃で口答えできない。もっとも自分の行きたい所には行かせないのが会社というもの。
仕事はそこそこ面白かったのだが、あるときインドの大プロジェクトで直属の部長と課長の板ばさみになり、課長が死ぬの生きるのといっているような状態のなか、正直仕事に冷めていってしまった。「脱サラして、オーストラリアで日本語教師になろう。」と自分で自分に辞表を出し、ついでに辞令も出した。これからは自分の人生の進路は自分で決めようと格好よく言ったりしていたが、実のところは会社の組織から完全に脱落した負け犬の遠吠えだったのだろう。やり直し人生をオーストラリアに賭けた。 まず、体の悪い所を直そうと考えた。命には別状ないがあっても邪魔なものは、前も後ろもきれいにさようならした。脱サラして規則的な生活をし出したら、体重が10キロ減った。飲んでから最後にラーメン、餃子、ゆで卵なんかが定番だったサラリーマン時代。それが終わっただけで痩せた。これには驚いた。 それにしても、当然ながらオーストラリアにはビザがないと観光には行けても住めない。日本語教師だけでは弱い。何か、日本人ならではの技術を、俄か作りで習得しようとした。「そうだ、指圧をやってみよう。」熱しやすいことは天下一品、特に異性に関しては、池の鯉にでも恋してしまう性格。決めたら即実行。 シャネルの5番だけのマリリン・モンローを隈なく指圧しまくったという伝説の指圧師が日本にいた。彼女は、私の金髪憧れの元祖原点の方だ。因みに、秋田生まれの母とモンローは同じ年、彼女が生きていれば今年87歳か。更には、エリザベス女王が秋田で生まれていたら同級生。母の場合は、シャネルとかじゃなく桃の花とか、もっと身近なものだったような気がするが。この伝説の指圧師、浪越徳治郎さんが立川の朝日カルチャーセンターで家庭指圧教室をやられていたので、失業保険を取りに行くついでに資料をもらい即断で入会した。 こうして、いろいろ準備して1985年6月にオーストラリア入りした。贅肉も無くなったが金も無く、あるのはどデカイ夢だけの33歳。結局、永住権は指圧でも日本語でも取れず、すったもんだのあげく、日本食レストランのマネージャーとして奇跡的に取得できた。 今は、セブで時々一時間500円でマッサージに行くことがある。まかり間違えれば、自分がやっていたのかも知れないなどと思うとパンツ一丁で思わず苦笑いしてしまう。ご希望の方にはやって差し上げたい気持ちもなきにしもあらずだが、気持ちはあっても指がついていかないので話だけに留めておく。 毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。 タコ社長の本業・オーストラリア留学 タコのツイッター Twitterブログパーツ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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