|
テーマ:海外生活(7773)
カテゴリ:移住模索期
朝のテレビのワイドショーをよく母と一緒に見た。33歳でオーストラリアに永住権を求め て1985年6月に両親の住む東村山を後にした。1年以上オーストラリアのメルボルンに滞在し、やっとのこと永住権を申請することができ、日本に帰って結果を待っている半年間の間のことだった。 宮尾すすむさんの「ああ日本の社長」という番組は二人の好きな番組でもあった。ビックカメラの社長の話しなど、今も覚えている。 「大学まで出て、そこそこの会社に入って、辞めてお母さんと朝からテレビ見てるって、どっかおかしいと思わないかね。」可なり応えた母の一言だった。 この社長シリーズでは、若いころにいろいろ苦労して社長になった方々の話が多かったように思う。宮尾さんの語り可笑しくて二人で笑い転げながらも、私は、この時は心から笑うことはできないでいた。 「悔しかったら、お前もああなってお母さんを安心させてよ。」 オーストラリアに行って、まずカフェで皿洗いをした。そして、日本食レストランでも皿洗いをした。テレビで見た、皿洗いから始めて社長になった人たちのことを思い出した。しかし、皿洗いをしていて皆が社長になれるなら、それこそ世の中社長だらけになる。 日本食レストランでは粉にまみれて天ぷらも揚げていたが、どうにもカラッと揚がらない。180度の温度調節が難しい。ベテランのシェフに、目の前で私が揚げた天ぷらを全部捨てられたこともあった。慣れない包丁で指を切った。料理なんか小学校の家庭科の授業以来ほとんどしたことがなかった私が、日本食レストランで働いている。 だが、こうしたすったもんだの甲斐あって、なんとか永住権を取得して1987年3月に再びオーストラリア入りした。 永住してから、すぐ金髪女性と結婚して数年で別れた。その別れた妻の母親に、「あんた、日本に帰った方がいいよ。」と静かに言い切られ、顔から血がすっと引いて上げられなかった。脛は傷だらけで、人の脛も借りないとならない人生だった。しかし、この時日本に帰るわけには絶対にいかなかった。 私は、基本的には飽きっぽい人間だが、その中でしつこく追い求めてきたものがいくつかあって、それらに関しては絶対に諦めないで今に至っている。 今月の23日に、88歳になる母が1人で住む日本の東村山に一時帰国する。 毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。 タコ社長の本業・オーストラリア留学 タコのツイッター Twitterブログパーツ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[移住模索期] カテゴリの最新記事
|