テーマ:ココロ(1186)
カテゴリ:シュタイナーに学ぶ★
久々ですが、シュタイナー関連のブログです。
近頃、思うところあってまたシュタイナーの本をよく読んでいます。 シュタイナーはよく「人を主観的に評価しない」ことと「謙虚さ」を謳っているのですが、私はつい最近まで「人を主観的に評価しない」という点について少し疑問をもっていたんですね。 物事、社会が発展していくためには活発な意見交換が必要で、そこには評価、改善の流れが必要ではないか。評価されたときにそれを謙虚さで受け止めることは必要だけれど、評価をしないのであれば、そこで停滞してしまうことになるのではないか? でも、主観的に評価した場合は主観的に受け止められることが多いんですよね。相手が謙虚さで受け止めてくれるだろうって言うこと自体、主観的だったりするわけですから。 シュタイナーは「心」というものを「本能的、衝動的な心をアストラル体」、「本能的、衝動的な心を統括する心(理性みたいなもの?)を自我」として表現するのですが、シュタイナーはこの2つをきちんと分け、かつ自我が調和的にアストラル体を統括する存在であるべきと主張します。 主観的に評価するということは、一見「自我」の働きのように見えて、実は「なんかちがうぞ!」というもやもや感からくる「本能的、衝動的な心であるアストラル体」の働きなんじゃないかと。実際のところ、ほとんどの人の場合は自我もアストラル体も混在しているのが心だというのが現状だと思うんですね。私も今のところその状態で…。そういうわけで、私も含めて世の中の「批評したり」「評価したり」っていうのが「発展的改善」という名のもとに実は本能的、衝動的で、「本質は何か」ってことも伝えたかったかもしれないけれど、自分自身の心も衝動的な部分と自我が入り乱れてわからなくなっているし、そういう状態で伝えられたほうはもっと衝動的な心の部分でしか受け入れられない状況になることは有に想像がつきます。 そういうわけで、確かにシュタイナーが言うように「主観的に人を評価する」っていうのは「発展的改善」につながりにくいどころか、争いや憎しみや悲しみを生むという高いリスクを背負うことになってしまうことになるな~と思ったりしています。 そういう視点に立ったとき、今までの自分の行いは非常に反省させられるものばかりです。 しかしながら自我が本能的、衝動的な心を無理に支配しようとすると、体に不調和が起きます。それがいわゆる「ストレス」による体の不調ではないかという気がしますね。 そしてシュタイナーがいうようにきちっと「自我とアストラル体が分かれていて、自我が調和的にアストラル体を統括している人たち」が本質を伝えようとする意見こそ本当に伝えられた人に謙虚さで受け止められる気がします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年07月23日 00時39分34秒
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