テーマ:食のある風景(19)
カテゴリ:食となかま♪
24(日)に2月のたのしもう会を開催しました。しかし、今回のたのしもう会はいつもと趣きが違います。前回、前々回と「いのちの食べかた」についてブログに書いてきましたが、今回のたのしもう会では実際に合鴨を絞めてそのいのちをいただく体験をさせていただくことになったのです。
今回の企画でお世話になった合鴨農法でお米を作られているYさんは、毎年この時期にいろいろな場所に出向いて米作りでお世話になった合鴨たちを、「絞めて捌き、いただく」という体験会を実施されています。私たちの親世代は、家で飼っていた鶏を絞めて、食べるという経験をしている、もしくは見て育った人たちがほとんどですが、今、親である私たちの世代は学校で蛙の解剖もしたことがない世代です。たのしもう会に参加されているお父さん、お母さんに、事前にこのような体験をわが子にさせることをどう思うのか、子どもたちがいのちと向き合う時期として、適当なのか、そのようなことを十分考えてもらった上で、今回の参加を決めていただきました。 いのちをいただく体験の前に、Yさんより合鴨たちの田んぼでの活躍ぶりについてお話をしていただきました。 合鴨たちは田植え前に田んぼに放されます。そうすることで鴨たちが田植え前の土をかき回し、田植えのしやすい状態を整えてくれます。また、田植えをしてから苗が成長していくとともに、合鴨も成長しますが、苗より鴨の成長が早すぎると苗が倒されてしまうので苗と鴨の成長速度が一致することもとても重要だそうです。こうして田んぼでお米にとって天敵である害虫をせっせと食べてくれた合鴨たちを、合鴨の天敵である野犬やカラスから守るための工夫をしながらYさんは毎年大事にお米を育てられます。 活躍してくれた合鴨たちに感謝の祈りをささげた後、体験に入りました。合鴨たちは全部で8羽。はじめに背中で2枚の羽を絡め合わせて動けないように「羽交い絞め」にします。(羽交い絞めという言葉の由来はここにあります。)羽交い絞めにした鴨の足を縛り、頭の後ろから前頭部にかけて、竹ひごをとおし、長いさおに逆さにつるして首の動脈を切って血抜きをします。ここまでの作業が一番つらいところです。子ども達がどこまで見れるのか心配していましたが、大人が思う以上に子供たちは興味深々で、その様子をじっと見つめ、つるされた鴨たちに触れ、まだ動いている心臓や温かみを感じていました。 血抜きをおえた鴨を、熱湯(70度くらい)につけます。こうすることで羽が抜けやすくなります。鶏と違って普段水に浮かんでいる鴨は、保温のために細かい産毛がびっしりです。長い羽から産毛まで、みんなでもくもくと抜いていきます。 毛抜きを終えた鴨は頭と足を落とし、内蔵を取り除きます。栄養士の私ですら、このような体験は初めて。これが腸でこれが肝臓だよ、とみんなで確認しながら作業をすすめます。私を含め大人が一番驚いたのが「砂ずり」です。砂ずりとは鳥の胃袋のことですが、歯がない鳥たちがえさを食べると、この胃袋で細かくすりつぶされます。だから鳥にとっては歯と同じ役目。筋肉の塊のようなもので、割ってみると中からざらざらとした砂の粒がたくさん出てきます。 また、卵を産むメス鳥の内臓には、卵になる順番待ちのような状態で、卵の黄身のようなものが大小たくさんつらなっているのも驚きです。これは通称「金柑」と呼ばれています。本当に見た目も金柑にそっくりなのです。子ども組で参加していたKちゃんが、心臓を見て「あれ?心臓ってハートの形じゃないね」と言っていたのも印象的でした。 取り出された肝臓や心臓、砂ずり、金柑は煮付けにしていただきます。他の内臓や頭部、足や血、羽などはすべてYさんが回収し、畑の堆肥として使われるそうです。 内臓までとってしまうと、クリスマスなどで見かけるローストチキンと同じ状態になります。ここから「解体」作業に入ります。関節の間の筋に包丁を入れることで力を入れることなく「もも肉」「手羽元」にばらすことができます。よくスーパーのお肉コーナーにぶら下がっているお肉の部位の名称が書かれたパネル。平面図でわかりづらいですが、実際解体することで、どの部分が「胸肉」で「ささみ」なのかもはっきり知ることができました。当たり前のことですが、一羽の鴨からは2枚のもも肉と2本の手羽元しかとれません。スーパーのパックに入っている手羽元。何本入っているだろう。いったい1パック何羽分?そんなことをみんなで話しながら作業をすすめていきました。 ここまでの一連の作業に大人17人子ども10人がかりで丸2時間。骨付きは炭火焼で、胸肉などは軽くあぶって「鴨鍋」に。ちなみによそったごはんはYさんと合鴨たちが育てたお米。お米の向こう側にも想いを馳せながら、鴨たちに心から感謝の想いをこめてみんなで唱えた「いただきます」です。 「殺生」に携わること。当然ながら気持ちのいいものではありません。嫌だからこそ、「穢れ」や「不浄」という言葉で弱い立場の人たちやお金に変えて自分から一番遠いところへ追いやりたかった、見えなくしてきた人間の弱さをそこに感じることができました。そして今は、「知らない」ことでその負い目や弱さも「感じなく」なっていることの怖さも実感しました。 そしてあらためて「自分のいのちの向こう側」これからも目をそむけず知ることをやめないでいようと心に誓った、忘れられない1日になりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年02月24日 22時58分10秒
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