テーマ:暮らしを楽しむ(388221)
カテゴリ:食となかま♪
昔は生きるために必要な衣食住にまつわることが仕事であり、そのプロセスそのものが暮らしでした。そして現代、家族は多様な価値観の中で、それぞれが社会的なつながりをもちながら暮らすようになりました。言ってみれば「暮らしのグローバル化」それにともない、暮らしの便利さ省力化を手に入れた私たちが手放したもの。それは暮らしのプロセスにかかわる時間と、そこには必然だった家族としての立場や役割ではないでしょうか。
知人の上司Aさんは、この春小学校を卒業した娘さんに「お父さんは卒業式は来なくていい」といわれたそうです。さみしそうなAさんに、「娘さんもそういう年頃なんですよ。」と月並みな表現でしか反す言葉がなかったという知人の話を聞いて、この娘さんの中の「暮らしの中の父親像」とは一体どんなものなのだろうと考えさせられました. 帰宅がいつも9時を過ぎ、用意された食事を食べ、風呂に入り、テレビのニュースを見て寝る。朝起きたら出された朝食を食べ、身支度をして会社へ向かう。このパターンは家庭の中で、非常に多くのお父さんが繰りかえしている日常ではないかと思います。この場合の「暮らし」は「本人のためだけ」に繰り返されるもので、家族としての役割はそこにはありません。たまの休日に、子供と遊んであげたり、買い物に連れ出したり、それはそれで大切なことですし、子供にとっても大人になったときのいい思い出になるでしょう。ですが、それは非日常であり、暮らしのプロセスからは離れています。また、子供は子供で、暮らしの外では勉強、部活、塾、家庭の中ではお父さんと同じように「本人のためだけ」に繰り返される暮らし。それぞれが個としてだけ成立する「暮らし」を繰り返し、暮らしのプロセスそのものは「お母さん」だけにゆだねられる…そんな実態が浮かびます。 昨今、暮らしのプロセスそのものである「家事」を「時間」と「労働力」というものさしだけをあてて語られることが多いし、実際私も最近まではそうでした。家事は少しでも楽なほうがいい。お互い働いているのだから平等に家事を分担するべき。(分担という言葉自体「負担を分ける」ことが語源ですよね、多分。)しかし、どこまで便利になって、どこまで省力化できても、「時間」と「労働力」という2つのものさしだけでは、暮らしのプロセスのために使わなくなった「時間」と「労働力」をまた遊びや社会的な仕事など、別のところに当てるだけで、家事に対する「負担感」というものは変わらないし、仮に、1人が担っていた家事の「負担」を新たに「分担された側」からすれば、「やらないで済むならそれにこしたことないよな。」という本音をねじ伏せて理屈や道理上、納得せざる終えないでしょう。 昔の暮らしに戻ればいいとか、そういう非現実的なことを言うつもりはないですが、省力化された中でも、衣食住にかかわるプロセスに家族としての立場や役割をそれぞれが担うとき、初めて家族というまとまりができるのではないかという気がしています。家事を誰が担うか、負担を押し付けあうのではなくて、そういう観点から「家事」を捉えればいいのではないか。そのような話を夫に話したら、料理とは縁遠かった彼は最近、台所に立つようになりました。 このブログで何度も紹介している「元祖弁当の日」の竹下和男さんはいいます。 「暮らしの時間は親子の絆を形成し、家庭が心の基地であることを子供の心に深く刻み込む役割を果たしていたのです。子供たちのかかわるいじめ、不登校、ひきこもり、摂食障害、窃盗、援助交際、薬物依存、傷害事件や殺人事件の多くの背景に、私は「家族」が「カ・ゾ・ク」となった現実があると痛感しています。」 世の中の家族がカ・ゾ・クに変化している。上記のような事件が、どこにでもある普通の家庭で起こっていることが裏付けられる言葉だと思います。「うちは関係ない」と無関心な人ほど問題は根深い?あなたの家族はカ・ゾ・クになりかけてはいませんか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年04月14日 22時29分14秒
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