ははおやになる
たんに子どもを出産することと母親になることはまったく別のことだ。 どんな女性でも子どもを産むことはできる。それはとても単純な現象だ。だが、母嫌になるには大いなるわざ(アート)が必要であり、大いなる理解が必要だ。 あなたは人間をつくりだしているーーーーそれは大いなる創造だ!画家は絵を描き、私たちはそれを偉大な芸術と呼ぶ。 ピカソーーーーーー私たちは彼を偉大な芸術家と呼ぶ。だが、ピカソを生み出した母親についてはどうだろう?詩人は美しい詩を書くが、シェークスピアを生み出した母親についてはどうだろう? 私たちは母親を地上でもっとも偉大な創造的人々であるとは考えない。 女性たちが偉大な画家や詩人にならない理由のひとつはこれだーーー彼女たちはなる必要がない。彼女たちは偉大な母親になることができる。なぜ男性は偉大な科学者、詩人、画家、あれやこれやになろうとするのだろう?男性は女性に嫉妬している。彼らは子どもを産むことが出来ないからだ。彼らは自分の無能さを感じている。 ジークムント・フロイトは男根への嫉妬について多くを語ったーーー女性はペニスを持っていないので嫉妬に苦しんでいる。と。さて、これはまったく無意味なこと、ばかげたことだ。女性のジークムント・フロイトが生まれてきて、男性は乳房を持っていないので乳房への嫉妬に苦しんでいる、と語ることを想像してみるといい。 だが、ひとつだけ確かなことがあるーーー男性は母親になることができないので、生きている命を身ごもることが、生命を生み出すことが出来ないので、深いところでいつも嫉妬を感じている。その代償として、男性は絵を描き、のみを振るい、詩を書き、音楽を作曲する。彼らは月へ行き、」エベレストに登る。彼らは少なくとも恋人にだけは「自分だって何かが出来る」ということを証明したい。そうでないと自分の無能さを感じる。女性の能力と比べたら、男性は子どものようにしか見えないし、ほとんどおまけのようにしか見えない。彼らの働きなど大した物ではない。子どもを誕生させるとき、男性はそのプロセスの引き金を引くだけだ。ちょっとした注射でもそれができる。それは大した仕事ではない。 女性はその苦しみと歓びの九ヶ月間を経験する。しかもそれで仕事が終わるわけではない!実のところ、それから仕事が、ほんとうの仕事が始まる・・・・・子どもが生まれたときに。子どもは再び生に初々しい質をもたらす。子どもはみな原始的であり、野蛮人だ。母親は彼を教化しなければならない。子どもはみな野蛮人だ。いいかな、彼は動物であり、野性的だ。母親は子どもに文化を与え、彼にいきることの道を、人間の道を教えなければならない。 あなたはそれを覚えておかねばならないーーーあなたの仕事が終わったのではなく、未だ始まったばかりだということを。それを喜びとともに受け止めなさい! あなたは何かこの上もなく価値のあるものをつくりだしているーーーあなたは生命を彫刻し、生命に形をあたえている。この仕事は最大限の偽性を求めるものだーーーそのためにはどのような偽性も払いうるし、また実際にはらわねばならない。これがひとつ。 第2に、それをあまり深刻に受け取ってはいけない。そうでないと、あなたは子どもをだめにしてしまう。あなたの深刻さは破壊的なものになるだろう。それを明るく受け止めなさい。もちろん、責任はある!それは容器に受け止められなければならない。楽器と戯れるように、子どもと戯れなさい・・・・・。いまからは子どもをあなたの楽器にしなさい。注意深く戯れなければならないが、楽しく戯れなさい。あなたが深刻になってしまったら、子どもは貴方の深刻さを感じるようになり、押しつぶされてだめになってしまうだろう。子どもに重荷を負わせてはいけない。自分は子どもに何か偉大なことをしていると感じ始めてはいけない。私は、あなたは何か偉大なことをしていると言うが、あなたは自分自身に対して何か偉大なことをやっている。この子どもが美しい人間に、ブッダに育ってゆくのを助けることで、あなたはブッダの母親になる。子どもに恩を着せてはいけない。あなたはただ自分の人生を楽しんでいるだけだ。あなたの人生は子どもを通してかぐわしい香りになる。 これはひとつの機会、神から与えられた機会だ。 そしてそこには二つの落とし穴がある。ーーーあなたは育児にあきて、子どもをほったらかしにしてしまうかもしてないし、あるいは子どものことであまるにも深刻になってしまい、彼に重荷を負わせ、彼に恩を着せるようになるかもしれない。どちらも間違っている。子どもを助けなさいーーーだが、まったくの喜びからそれをしなさい。そして子どもには私に借りがあるなどとけっしてかんじてはいけない。むしろその反対に、彼があなたを母親として選んでくれたことに感謝しなさい。彼を通して自分の母性を開花させなさい。 自らの母性を開花させることができたなら、あなたは子どもに永遠に感謝を感じるだろう。 そして当然、そこには犠牲もつきものだが、それは喜びに満ちてなされなければならない。そうして初めてそれは偽性だと言える!喜びなしでやるなら、それは偽性ではない。「犠牲 sacrifice」は「聖なる sacred」という言葉から来ている。喜びに満ちてやったらそれは聖なる物だ。喜びに満ちてやらなかったら、あなたはただ義務を果たしているにすぎないーーー義務はすべて醜いものであり、それは聖なるものではない。 これは絶好の機会だ。それに瞑想し、そのなかへ深く入ってゆきなさい。これほど深い結びつきを見いだすことはできないーーー実のところ、子どもと母親のきずなほどに深いものはほかにはない。夫と妻のそれ、恋人同士のそれでさえ、子どもと母親の結びつきほどには深くない。ほかの誰かとそれほどに深くなることはできないーーーなぜなら子どもはあなたのなかで九ヶ月間あなたとして生きてきたからだ。ほかの誰もあなたのなかで九ヶ月間、あなたとしていきることはできない。 子どもは遅かれ早かれ独立した個人になるが、無意識のどこか奥深くで、母親と子どもは結ばれている。 あなたの子どもがブッダになることができたら、あなたはそれによって恩恵を受ける。あなたの子どもが成長して美しい人間になったら、あなたはそれによって恩恵を受けるーーーなぜなら、子どもはつねにあなたとつながっているからだ。肉体的な繋がりが断たれるだけで、霊精神的(スピリチュアル)なつながりが断たれることはけっしてない。 神に感謝しなさい!母親になることは祝福だ。walk without feet,fly without wings,think without mind